カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「赤ん坊に向けて『お母さんは困った!』と叫び続ける」~母親たちの危機②

 エストロゲンの作用によって(ってホントかな?)産後、孤独感と不安にさいなまれた母親は共同保育に向かおうとする。人類は700万年かかってそうした形質を作り上げてきたにもかかわらず、この100年余り、先進国はむしろ個別保育に向かっていった――それが「NHKスペシャルママたちが非常事態!?〜最新科学で迫るニッポンの子育て〜」のひとつの柱です。
「非常事態」はそういう意味です。

 もちろん現在でも番組に出てきたカタールのバカ族のように共同保育の慣習を持つ民族はありますし、日本より早く核家族化の始まった欧米ではベビーシッターの制度を整えてこの課題を克服しました。ところがその中間である日本はまさに個別保育の苦しみの真っ最中にあり、「ママ友」という特殊な概念は日本にのみ存在するのだそうです。
「ママ友」が日本独自というのは少し驚きましたが、「乳幼児の母親」という共通項だけで結びつくことができるという点ではこの国もなかなか捨てたものではありません。
 私の勤務する支援センター(児童館に併設)もその一端を担っていますが、公園デビューやネットを通して様々な親子が知り合い、情報に触れ、意思さえあれば毎日どこかでつながっていられる――それはそれで大家族が崩壊しベビーシッターにも頼れない社会における新たなコミュニティの創造という点で、たいへん意義深いことです。しかし問題は夜です。

 番組では日中のほとんどをママ友サークルとともに過ごす一組の母子の家に帰ってからの様子が映し出されていました。
 誰もいないマンションの一室に「だだいまぁ」と戻ってから夫の帰宅するまでの時間、母子は二人ボッチなのです。たまたま大人しく育てやすい子ならいいのですが、気難しくなかなか泣き止まない子や、いわゆる「イヤイヤ期」に入ったお子さんだったりすると大変です。
「何の地獄かと思いました」
とその母親は言います。子どもがむずかって泣き叫ぶ間、「お母さんは困った!」「お母さんは困った!」と言い続けるその母親の姿は、悲惨ですらありました。

 この、「お母さんは困った」という日本語の違和感を、私はうまく説明することができません。
 母親が子どもに対して自分のことを「お母さん」と呼ぶのは普通ですし、「お母さん、夕飯の用意をするね」とか「お母さんも眠くなったよ」と話しかけることも一般的です。しかし番組で紹介された母親の「お母さんは困った」は、それらとは何かが違うのです。
 考えると「お母さん、夕飯の用意をするね」や「お母さんも眠くなったよ」のあとにはカッコつきで「(しばらくおとなしく待っててね)」とか「(だから一緒に寝ようね)」といった言葉が隠されているのに、「お母さんは困った」にはその部分がない、何の解決策も提案もないのです。ただ困っている。私はなんだか、駆け寄って声をかけたい気分になりました。

 ママ友コミュニティーも夜の家庭にまで入り込むことはできません。ここはやはり、日本の家族の最小単位「核家族」の力を借りるしかないのです。もはや乳幼児の共同保育の担当者は「夫」以外にないからです。

 性教育は性差を学び男女の協働を学ぼうとするものです。しかし翻って、私は夫婦を共同保育者という視点から十分に教育してきたかいうとかなり不安になります。私自身は子育てが非常に好きで十分に楽しんできましたからその想いを伝えるだけでも良かったのです。しかしほんとうにそうしてきたのか――今頃になって後悔の気持ちが湧き上がってきます。