「疑わない世界の価値」~結局、“信頼”の方がコスパがいい

「世界の衝撃映像」とか「スクープ映像」とかいうのが好きで、テレビでもネットでもよく見ます。「事実は小説より奇なり」と言いますが、私たちの想像の枠を超えるできごとを見せつけられるのは、一種の快感でもあるような気がします。世の中には信じられないこともありえないことも、結構あるのです。ただし、世界にはありふれているが日本にはないかもしれない、そういう映像もあります。
 コンビニの店員の手元の映像、レジを上から見る画像、倉庫や更衣室の防犯カメラというのは、何となくですが日本の文化にそぐわないような気がするのです。実際に「世界の衝撃映像」の類で、日本人店員による驚くべき不正というのは見たことがありません。

 先月の浜松市ノロ集団感染の際の、パンの一枚一枚を確認するという衛生管理の厳しさにも驚かされましたが、その直前のマルハニチロの冷凍食品工場にもびっくりしました。衛生管理という意味ではこちらもほぼ完璧だったからです。結果的に一方はノロ・ウィルスによって、もう一方は食品テロによって被害を外に出してしまったので完璧とは言えないのですが、ここまでくると「完璧」とは何かということが改めて問われます。それは例えば、ノロ・ウィルスについては、そもそも完璧はないのではないかということです。

 完璧でない以上どうやっても集団感染のリスクはゼロにならない、だとしたらいつか集団感染に襲われる可能性を承知で学校給食を続けるか、食事による集団感染を避けるために給食をやめてしまうかのいずれかです。
 多くの場合、ウィルス感染の可能性を受忍限度内のものとし、学校給食は続けるという判断に傾くでしょう。食育の観点からも保護者の負担軽減の意味からも、学校給食は減らすことはできないからです。それでいいのです。今のまま食品加工の現場を責めてもムリです。

 マルハニチロは衛生管理という意味ではほぼ完璧だったのに、テロに対する危機管理という点ではまったくダメでした。しかしここから「すべての食品製造の現場では、テロに対する危機対応をすべきだ」と結遁するのは短絡に過ぎるでしょう。従業員のすべてに身体検査を実施したり職場のあらゆる角度に監視カメラを設置したりするのは、コストがかかりすぎますし何よりも従業員のモチベーションに関わります。日本の社会は基本的に従業員に対する信頼を前提に動いています。その前提にメスを入れればモチベーションも同時に失うことになりかねないのです。

 佐村河内何某という全聾の作曲家が、実は作曲もしていなければ聾者でもなかった(かもしれない)という事件は日本中に衝撃を与えました。彼の出世に力を貸したNHKのスタッフは「あれほどの取材をしながら、なぜ見抜けなかったのか」と批判されています。確かに膨大な時間を使っての取材ですから不審に思うような瞬間がなかったはずもないでしょう。しかしそこでも“信頼”が目を曇らせたに違いりあません。日本人は“疑い”から入ることに慣れていないのです。

 ここからが問題です。マスコミはしばしば日本人の危機感のなさを“平和ボケ”といった言い方で非難したりバカにしたりします。しかしそうした批判に応えて常に人を疑う時代が来たとして、そのとき私たちは幸せになっているでしょうか。
 ノロウィルスの集団感染はこれからもゼロにはならないでしょう。しかし「トイレに立った職員は必ず塩素プールを泳いでから職場に戻る」といった極端なことをしてもゼロにはなりません。食品テロも佐村河内のような詐欺師も、やる方が本気になれば防ぐことは不可能です。
 だとしたら「疑わない世界」をこのまま維持し、いくつかの事件や被害はこれをコストとして受け入れていくしかないと思うのですがいかがでしょう。