カイト・カフェ

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「透明で混沌とした世界」~子どもと生きるというのはそういうことだ

 東野圭吾の作品が好きでテレビドラマの「ガリレオ」シリーズもよく見ています。主人公の湯川准教授は天才物理学者で同時に重要な警察の協力者です。そして子どもが嫌い。なぜかというと「子どもは合理的ではないから」だそうです。子どもが近づくと蕁麻疹が出るほどに嫌いなのです。
「現象には必ず理由がある」「仮説は実証されて初めて真実となる」が口癖で、論理の明快さがすべてです。事件捜査に関わるのもたとえば密室殺人といった不合理が我慢できないのであって、誰が犯人か、その動機は何かといった問題には一切興味がありません。論理と筋道の申し子なのです。

 作家村上龍のデビュー作は「限りなく透明に近いブルー」でした。これについて村上自身が、数学的な美しさがモチーフだと言っています。
「反比例を表す漸近線はどこまでたどっても絶対にX軸にもY軸にも接しない。グラフ上でいかに接しているかのように見えても絶対に触れてはいない、その美しさが好きだ」
というのです。

 私も若いころ、というよりは子どものころ、数学のそういう透明さが好きでした。例えばどれほど複雑な方程式でも、手順に従って解いていけば必ず小さくたたまれ、最後は「X=」の形で表現される。項が何十あろうと因数分解の問題は必ず答えがあり、何十人何百人いようとも不正解以外のすべての人が同じ答えになる。そこが不思議で、しかも美しく、そして心地よかったのです。

 それに比べれば国語や社会科はまるでダメです。解釈の学問ですから答えに幅があります。すべての答えは仮の解であって、新たな発見があれば簡単にひっくり返ってしまうほど脆弱です。例えば作家の私生活に重要な事件がひとつ発掘されるだけで、その時期に書かれた作品の解釈は異なってきます。
 社会科も一つの発掘、一つの発見によって学んだ事項そのものがなくなってしまうことさえあるのです(例えば三内丸山遺跡の発見ひとつで、縄文時代に関する私たちのイメージはまったく異なったものになってしまいました)。
 若いころはそういうものに相当いらだっていたのです。

 ところがある時期から不合理だったり不条理だったりするものに心惹かれるようになったのです。きっかけは埴谷雄高の「不合理ゆえに吾信ず」という著作です。
 これは一種の哲学的アフォリズム(格言集?)で、正直言ってさっぱり分からない本でしたが「不合理だからこそ信じる」という感じ方考え方が、その時期の私にストンと落ちたのです。

 数学や科学はこの世界の一部でしかありません。人間を含め、世の中の大部分は合理的に説明できない混沌としたものです。それが合理的に説明できるとしたら、説明か現象のどちらかが嘘なのだ、とそんなふうに理解しました。それから人間とか人間の営みとか、その不合理な存在を扱う“教育”とかが好きになりました。

 湯川准教授のように子どもの不合理が嫌いだと教育はできないのです。