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「教師の意欲をどう考慮するか」~特別活動のドーナツ化現象③

 理想のクラスをつくれば教師は楽になる、
 行事を減らせば教師は楽になる、その通りだと思う。
 しかしそれはすべての教師に可能なことなのだろうか、
 そしてそれで楽しいのだろうか?
という話。(写真:フォトAC)

 学校の先生の負担が極めて大きくなっているという状況で特別活動(以下特活)をどう考えていったらよいのか――。これについてNHKは二つの答えを用意しました。
 ひとつは特活の重要な柱である学級会を充実させることによって、子どもが自主的に活動できる力を養い、子ども自身が活躍することで教師の余裕が生み出されるというもの、もうひとつは文科省が勧める「行事の精選と重点化」です。
 しかし私は両方とも、それが永続的な解決策だとは思えないのです。

【何かを成し遂げるには授業時数はあまりに少ない】

 学級会の充実こそ、教員の働き方改革の決め手だと言わんばかりの東京都板橋区の取り組み、しかしあれが普遍的なものだと言われると私は困ります。
 子どもたちが子どもたちの力だけでどんどん話し合いを深めていく授業、そしてクラス――それは理想ですが、誰でもできるものではありません。もちろん才能はすべてに優先しますから話し合いのできるクラスを簡単に組織してしまう先生もいますが、たいていは苦労します。苦労した上でできない人も(私のように)います。
 なにしろ学級会の開かれる場である特別活動は、年間で35時間しかないのです。その35時間で入学式も始業式も終業式も卒業式も、そして遠足、修学旅行、運動会、音楽会、ボランティア活動、必要ならそれらの練習も、全部しなくてはならないのです。もちろん実際には、学校は35時間をはるかに上回る時間を特活に費やしていますが、それでも学級会なんて月に一回(年間12時間)取れれば十分でしょう。月一回の授業で話し合いの力をつけるなんて、普通の教師にとうていできるものではありません。

【放っておいても子どもは正しい判断をするようになる――わけではない】

 さらにNHKの放送に出ていた新卒3年目の担任教諭のように、
「私は何もしないよ。学級会でも口を挟まないよ。自分たちで進めていきなという風にやったら(中略)言われなくてもできるというのができてきた」
というほど簡単なら、教師の仕事は本当に楽です。しかしその言いい方は教師特有の謙遜であり、修辞であり、虚飾です。うっかり字義どおりに取るととんだ痛い目に遭います
 子どもは放っておけば自分から動き始めますが、必ずしも正しい方向へ、望ましいやり方で進むとは限らないのです。
 例えば具体的ないじめ問題を安易に学級会にかけると、「いじめられている本人が性格を直せばいい」みたいな結論にたどり着く可能性だってあります。そのときになって教師が慌てて介入し、方向を代えようと言ったって無理です。そう簡単には止まらない。
 《自分たちで考え、自分たちで進めていきな》と言っておいて、望ましくない方向へ進み始めたら慌てて介入する。そんなことをしていたら子どもはすぐにやる気を失ってしまいます。途中で挫くなら、最初からやらせない方がまだましです

【理想のクラスはやはり遠い】

 ではなぜ、NHKで放送されたクラスはできたのか――。それはこのクラスが特別に育てられたからです。
 話し合いの様子を照会した映像には授業を見守る多くの先生方の姿がありました。それは授業が大きな研究会の公開授業だったからでしょう。その日に至るまで、該当のクラスは校内の研究チームに暖かく見守られ、チームのサポートを受けた担任が時間をかけて丁寧に学級づくりに励んできたからこそ、ああいったことができるのです。そこには板橋区教育委員会指導室も、たびたび関わり、手が入れられたのでしょう。もちろん授業者が優秀であることは間違いありませんが、そうした多くの手がなければ。教員歴わずか3年の教師があんなふうにできるはずがないのです。

 新任の若い教師がああした授業を目指すのは良いことです。すばらしい現実があるのですから是非とも目標にすべきです。しかし“それができて当然”ということになると、話が違うと私は思うのです。現場の、特に若い教師は、あそこまでできないといけないということもありません。理想は理想であって、実現できなくてもかまわないのです。また、指導する側はよほど注意して扱わないと、指導が労働強化へと向かう危険性も、当然あります。

 ではやはり特別活動の前には、縮小の道しかないのでしょうか――。

【この教師の意欲をどう取り扱うか】

 教師たちは疲れ切っています。だから働き方改革が必要なことは理解します。しかし誰もが教職の同じ部分に不満を持っているわけではありません。

 時間外労働が常態化しているからと言って、部活を辞めることに教員全員が賛成している訳ではありません。一部から「BDK(部活大好き教師)」などと揶揄されながらも、部活に大きな教育的意義と生きがいを感じて、是非とも続けたいと思っている教師は一定数います。特別活動についても、一律に縮小すれば不満の残る教師も出てきます。
 NHKテレビで運動会の取り仕切りを任された若い教員は運動会の終わったのち、こんなふうに述懐しています。
「どういう形にするのがベターなのか、時間の許されるかぎり、どこまで保護者の願いに応えて子どもたちが輝く場を作ってというところはすごく悩んだ。もっとやりたい部分もありながら、それでは成り立たないっていう。そこは悔しいところもあるんですけれども、子どもたちの活躍の場は残していくべきじゃないかなっていう風には感じるので。この時代に合った形で、こういった行事を行っていけるのが、この先いいんじゃないかなと感じます」

 彼にはもっとやりたい部分もあってそれができないという悔しいところもあるのです。どこまで保護者の願いに応えて子どもたちが輝く場を作っていけばいいのかと迷いながら、やはり子どもたちの活躍の場は残していくべきじゃないかと思う。しかしやりたいことをすべてやっていくと、時間の許されるかぎりとかこの時代にった形とか言った点で問題が生れてくる、だからすごく悩んだのです。

 現在は《教師の働き方改革ありき》で、行事の削減重点化が喫緊ですから、管理職としても行事を増やさない方向、仕事を増やさない方向で強く動いていますが、ほとぼりが冷めたらどうでしょう? 同じ教育者として、先輩として、管理職として、こうした意欲ある教師の願いを十全にかなえてやりたくなりませんか? 多少の負担(それが問題ですが)があっても、若い教師に向かって、「先生の思う通り、自由にやってごらんなさい」と、言いたくなりませんか?
 そして「行事の精選と重点化」もまた有名無実化していくのです。
(この稿、続く)