カイト・カフェ

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「人々の営み」~御嶽山で多くの人々が亡くなって考えたこと

 御嶽で大きな災害がありました。現在のところで死者47名、行方不明と思われる人はさらに20人近くいるとされています。登山届が出しながら連絡の取れない方が5名、夫婦で登りながら一方しか発見されていない例、あるいはグループで登りながら一部が戻ってこない例などもあるそうですから、被災者の数は確実に増えそうです。
 時間が経つにつれて確認も進み、一人ひとりの名前が明らかになるとともに遺族の様子も報道され始めます。40数名という単に数字だったものが肉付けされ、“命”が見えてくるのです。
 不思議で、なおかつ当たり前のことなのですが、そのそれぞれに人生があります。こんなことがなければけっして知ることのなかった人々の営みが垣間見られてくるのです。優秀な作家にかかれば珠玉の作品がいくつもでそうな貴重な体験です。しかしそれが断ち切られていく――何ともやるせない話です。

 若いころ、意図しないのに似たような小説を続けて読むという不思議な体験を繰り返したことがあります。その一つはガルシア=マルケスの「百年の孤独」と深沢七郎の「笛吹川」です。いずれも一つの家系の人々が、数世代に渡って生まれ、死んで行く物語です。
 それぞれは歴史に名を残すような何の業績も残さず、ただひたすら生まれ、あっけなく死んで行きます。若かった私はその圧倒的な無意味に呑まれ、偶然手にしたこの二冊を恨んだものでした。

 しかしそれから10数年を経て、自分が家族を持ち、子を育んでいくうちに別の感情を抱くようになったのです。何の業績も残さずただ生まれ、死んで行く、そうした家系が脈々と受け継がれていく、それはごくありふれた家族のあり方ではないかということです。
 私の家系もまた、曽祖父母・祖父母・父母、私の家族――、知る限り社会的に大きな業績は何も残さず今日に続き、さらにその先へと流れて行こうとしています。しかし同時に、それぞれの人生は価値のある、貴重なものです。
 貴重なものの集積が無意味に見える、無意味なものの中身は実は宝石の粒のように尊い、その不思議さに心が透き通る気がしたのです。

 やはり若い時期の話ですが、そのころ地元と都会とを行き来した電車の窓からはさまざまなものが見えました。不思議なことに、よほどの市街地でないかぎり、日中、人が歩いている姿を見つけることはできません。田園地帯も住宅地も実に静かなのです。そんな中を、稀に女子高生が歩いている姿を見つけたりすると、私は妙に幸せでした。

 その瞬間、私がその子を見たということを彼女は知りません。私も深く記憶することはないでしょう。しかしその子はこののち長い人生を生き、恋愛をし、結婚し、母親となってさらに年を取り、老いていく、それはほぼ確実なのです。その豊かな人生の中のわずかな一瞬に出会うことができた、何と不思議なことか。
 私は一瞬の恋人を背後に見送りながら、その子の幸せを願ったものです。

 御嶽の火口の周辺にはまだ多くの人々が救助を待っています。すでに死亡の確認された方々を含め、これまでの私とは何のかかわりもない人たちです。その存在も知りませんでした。行方不明の方々の一刻も早い帰還を祈りながら、断ち切られたその人生を思いやることも、一つの供養になるかもしれません。