万引きなどの犯罪や暴力事件、いじめなどにおける生徒指導の最終的な目標は何かというと、それは「おのれの行為の『罪深さ』を知らしめる」ということです。
たいていの人間は他人が行う犯罪や暴力・いじめなどは認めようとはしません。特に自分が被害者であるような犯罪や暴力は絶対に許しません。にもかかわらず、自分自身の犯罪や暴力、自分が行ういじめについては異常に甘いのはなぜでしょう。
そこで考えられるのは「自分の行動については、たくさんの説明やいいわけ、主観的な正義がある」という仮説です。いじめに関する指導をしているといつも出てくるのがそれです。
「だって先に手を出したのは向こうのほうだもの」
「前はずっと私の方がいじめられていた」
「あいつはいつもクラスの弱い子をいじめていた」
犯罪については「ボクだけじゃない」が、しばしばいいわけとして使われます。
しかし当人がいくら主張しようとも、他人から見ればそれは立派な犯罪であり、暴力であり、いじめなのです。
そうした落差を、どう縮めたら良いのか。
答えは簡単です。当事者を当事者ではなく第三者につくりかえる、つまり事実を客観的に見させるのです。
そのためにするのが事実の確認です。最初にすべきことが事実の確認であり、最後にすべきことも事実の確認です。
誰がどう動いて何を言い、どういう動きがあって事件がおき、その結果何がどうなったか、果てしなく繰り返し確認することです。個人的な感情やいい訳に耳を傾ける必要はありません。何が起こったかだけをつぶさに確認することによって、いいわけや説明のない事実だけが、客観的に見えてきます。そのとき、自分のやった行いがあたかも他人のやった行いのように見え、許せなくなります。それが罪深さを知るということです。
刑事ドラマでよく見られる風景ですが、調書をとる刑事が繰り返し言う「よし分かった。じゃあ、もう一度最初からやってみよう」というのは、結局、事実の客観化、つまり罪深さを知らしめることだと私は思っています。
「事実」は百万回の説教や説得に勝ると感じています。