カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「更新しました」~キース・アウト

片方でこの夏も金を払って免許更新をしている教師がいるというのに、

他方、九州では資格のない人に、

ただで教員免許を渡して学級担任をやってもらっているという。

しかも、それには無理なからざる事情があるというのだ。

kieth-out.hatenablog.jp

「老醜を晒す人々――私とアインシュタインとチャーチルと・・・」~老い① 

 自覚は薄いが私もずいぶんと老いた――ようだ。
 シモーヌ・ド・ボーヴォワール上野千鶴子が、
 偉人でももう老人は役に立たないとガンガン責めてくる。
 あの人たちですらダメなのだから、いわんや私をやだ

という話。

f:id:kite-cafe:20210712063918j:plain

(写真:フォトAC)
 
 

 シモーヌ・ド・ボーヴォワール上野千鶴子

 今月のNHK「100分 de 名著」シモーヌ・ド・ボーヴォワールの『老い』です。
 ボーヴォワールについては「第二の性」の作者で、フェミニストで、実存主義哲学者で、そしてサルトルの生涯の同伴者だったということくらいしか知りません。

 サルトルは私たちの世代――正確に言えばさらに上のいわゆる全共闘世代にとっては必読の人でしたから、必然的にボーヴォワールも知るところとなりましたが、私は不勉強で彼女の著作はひとつも目を通したことがありません。「第二の性」についても、知るのは冒頭の有名な一節「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」のみで、私自身が親になってからは、
「いやいやシモーヌ、男の子は男の子、女の子は女の子に生まれてくるぞ」
と思っているので、なかなか素直になれない相手です。
 彼女の62歳の時の著作『老い』についても、題名すら知りませんでした。

 一方、今回の「100分 de 名著」で指南役として招聘されたのは東大の名誉教授上野千鶴子先生、これまた素直に接するのは難しい相手です。
 私は「セクシィ・ギャルの大研究」(1982年)という彼女の処女作を読んだことがあるのですが、まさかフェミニズムの本だとは思わず、題名にスケベ心を刺激されて買ってしまったものですから内容を知って絶句しました。(ただし根っからのケチですから、買った以上は最後まで読んでしまいました)。

 再三お話ししていますが、私はケチ以外に人の名前が絶望的に覚えられないという弱点を抱えていて、7年ののち、上野千鶴子の名前に気づかないまま「スカートの中の劇場」(1989年)という本を買ってしまい、再びホゾを噛むことになります。このときもスケベ心を刺激されてのことでした。二度も引っかかったのです。

 それでさすがに上野千鶴子の名前は覚えたのですが、本やテレビでたびたび出会う上野先生は、穏やかで響きの良い声でお話しするのに舌鋒は鋭く、論の運びが仕掛けだらけなので気が許せません。
 今回の「100分 de 名著」でも案内役のタレント・伊集院光さんに向かって、
「日本では肉体的な老いは目・歯・マラから始まると言われています。(伊集院さん)マラってわかります?」
といきなり突っ込んできて伊集院氏を絶句させ、
「そんなことをこのNHKで言われるとは・・・」
と慌てふためいているとさらに、
「そちらの方は(年を取っても)大丈夫ですか?」
と畳みかけて、もうこれで半分は牽制に成功した――今流の言葉で言えばマウントを取ったようなものです。全く気が許せません。
 この上野千鶴子先生が世界のボーヴォワールを扱うわけですからタダで済むわけがないのです。
 
 

 【老醜を晒す人々――私とアインシュタインチャーチル、マハトマ・ガンディ】

 先週月曜日の第2回はサブタイトル「老いに直面したひとびと」で、タイトル画面よりも先に紹介されたのは、
「人が60歳を過ぎて書くものは、まず二番煎じのお茶ほどの価値しかない」
という言葉です。最初から嫌な感じです。

 この一節はしばらく後で、さらに正確に引用されます。
 多くの老人は、習慣から、あるいは生活のために、また自分の凋落を認めたくないために、書き続ける。しかしその大部分は次のベレンソンの言葉が真実であることを例証している。
「人が60歳を過ぎて書くものは、まず二番煎じのお茶ほどの価値しかない」


 思わず、
「え? ボーヴォワールって私のブログの読者なの?」
と言いたくなるような話です。
 私は習慣から、また自分の凋落を認めたくないために、おそらく毎日このブログを書いています。習慣を失うことが恐ろしいといった面もあります。そしてコロナの状況下で生身の人間、特に子どもと触れ合うことがほとんどないまま1年半を過ごして、内容がますます二番煎じとなっていることを十分理解しています。その感じは番組の中で紹介されたアンドレ・ジッドの言葉そのものです。
「自分が言うべきであると考えていたことのすべてをすでに言ってしまった。これ以上書けば、過去の繰り返しになることを恐れる」

 社会に影響力のない私ですから「恐れる」ほどのことはないのですが、まったく新しい考えのように信じて書いたことを、20年も前の自分のブログ記事に発見したりするとほんとうにうんざりするのです。

 もっともボーヴォワールが叩くのは私のような市井の老人ではなく、「老人の星」のように光り輝く偉大な人ばかりです。そしてその偉人を叩くことで、全老人を潰そうとしているかのように見えます。
「科学者においてもっとも重要な発見は25歳から30歳の人間によってなされており、数学においては、齢を取ってからの発見は、極めてまれ。要するに学者は40歳に達すればすでに老いている」
「年取った学者は、自分のおくれた考えを防衛するために、しばしば学問の進歩を阻害することを躊躇しない。彼の享受している名声が彼にそうする可能性を与える」


 量子論を受け入れられなかったアインシュタインの晩年についても、
「その生涯の終わりにおいてアインシュタインが科学に役立ったというよりは、科学の進歩の邪魔になったことは事実である」
 ボーヴォワールの手にかかるとチャーチルもガンディーも引き際を誤った愚か人ということになってしまいます。

 こんな人たちがバカ扱いですから、私などいつの間にか蹴散らされた砂粒のようなものでしょう。問題外のさらに外――。

 しかし『老い』を書いたときのボーヴォワールもすでに60歳過ぎ。番組で解説してくれる上野千鶴子さんも今年73歳。「60歳過ぎた人の文章は二番煎じ」と言いながらも、死ぬまでしゃべり続けた、そして死ぬまでしゃべり続けそうな人たちです。

 このまま済むはずがありません。今夜の第3回を楽しみにしましょう。
 ちなみに上野先生の年齢を調べていたら、なんと今日(7月12日)がお誕生日でした(1948年)。おめでとうございます(と言っても噛みつかないでくださいね。何を言っても怒られそうで・・・)。
 
(この稿、続く)
 

「更新しました」~キース・アウト

教員免許更新制が廃止になるが、
間違っても教師の働き方改革の一環として
「先生たちを楽にさせるための政策」と曲げられないように注意しよう。
更新制で困っているのは教師ではなく、文科省教育委員会なのだ。

kieth-out.hatenablog.jp

 

「残念だ、残念だ、残念だ!」~東京都4回目の非常事態宣言、そしてオリンピック無観客実施

 パンデミック下における初めてのオリンピック、パラリンピック
 日本だからできる、日本だからできたと世界に示す絶好の機会だったのに、
 東京の第4回目の非常事態宣言とオリンピックの無観客決定。
 残念だ、残念だ、残念だ――

という話。

f:id:kite-cafe:20210709074030j:plain

(写真:フォトAC)
 


【だんだん気持ちが萎えてきた】

 東京都が4回目の緊急事態宣言だそうで、オリンピックも1都3県(神奈川・埼玉・千葉)の競技会場は無観客になるそうです(他にどこがあるんだっけ?)。ほんとうにがっかりです。
 別にオリンピックファンでもありませんし、大いに盛り上げたいと思っていたわけでもありませんが、2020夏季オリンピックに立候補した6都市、アゼルバイジャンのバクー、カタールのドーハ、トルコのイスタンブール、スペインのマドリード、イタリアのローマ、日本の東京――この中で、コロナ禍にもかかわらず開催できるとしたら日本だけだと思っていたので、少しでもいい状況でと願っていたのですが残念です。

 

 ほとんどのマスコミはここ数カ月のあいだ「反オリンピック」の論陣を張っていましたから、いざ始まっても取材に行く社は少なく、NHKと外国のメディアをのみを通じて結果やようすを知ることになるでしょう――何とも寂しいことです(と、八つ当たり)。

 
 

 【結局、ムリだった】

 当初の予定ではワクチン接種は2月に始まると聞いていましたから、いくら何でも5カ月もあれば希望者の大部分に接種が終わり、7月には無事開幕、と考えていたのですが、どういう事情か遅れに遅れ、7月いっぱいで何とか高齢者に打ち終えるのがやっとということになってしまいました。

 

 しかしそれでも日本国民が頑張って感染を広げないようにすれば、外国の観客は来られなくても、日本人の観衆でスタジアムを半分程度は埋め、それなりに盛り上げて・・・と思った時期もあるのですが、4月から5月にかけて爆発的な感染拡大をしてしまった近畿・中京・北海道・福岡県あたりは急速に感染を減らしたのに対して、肝心の首都圏はあまりにも頑張りが足りなかった、というか4月5月に頑張りすぎて他の道府県ほど感染を拡大させなかった分、いまごろになって燃え差しに火がついたのかもしれません。

 

 しかしその予兆はあったのです、というかあまりにもあからさまでした。繁華街の人出が急速に増えつつあったからです。ダメだよ、ダメだよと言えば言うほどいけない方向に進んでしまうのは、小中学校の一部の子にありがちなことです。
 しかし1万人にひとりかもしれない小学生のような「酒がどうにも我慢ができない人」が、首都圏には3400人~3800人余りもいるのです、この人たちが夜な夜な繁華街に出てどんちゃん騒ぎをし、家庭や職場に戻って感染を広げるわけですから止まらないわけです(原因を酒飲みに限定しているのも八つ当たりです)。

 

 私は普段は飲まない人間なので、飲まずに済ませることのできない人たちには本気で苛つきますが、それでも笑って許して差し上げましょう。そういう子どもはたくさん見て来たし、ほかの面では私自身にも「わかっちゃいるけどやめられない」(スーダラ節)ことはたくさんあるのですから。

 
 

【それでも日本はよくやっている】

 しかし悪いことにばかりに目を向けるのはやめましょう。この1年半余り、私たちはよく戦ってきたのです。
 ここまでの人口10万人あたりの感染者数はおよそ643人。他の先進国と比べると合衆国の6・2%、ドイツの14%、イギリスの8・5%、フランスの7・0%にしかなりません。
 死者は10万人あたり11・8人。同じ計算で合衆国の6・3%、ドイツの10・7%、イギリスの6・1%、フランスの6・9%です。

 

 もちろんお隣の韓国や台湾、少し南下してシンガポール、オーストラリア、ニュージーランドなどは日本よりずっと成績が良いですし、始まりの中国は10万人あたりの感染者数で日本の1割、死者は2・8%しかありません。実数でも死者は昨年4月18日以来、1年3か月で4人増えただけです(ホントかな?)。
 意外なことに、南アフリカ共和国と地中海沿岸の国々を除くアフリカ諸国には、日本が足もとにも及ばないほど成績の良い国がいくつもあるのです(エボラ出血熱のような最悪の感染症に何度も襲われているため、むしろ感染症対策が徹底されているからと言われています)。

 

 しかしそれぞれにはそれぞれのやり方や「運」があるのです。日本は一都市まるまる見殺しにするような厳しいロックダウンも、普通の意味でのロックダウンもせずにここまで来ました。感染者の通った経路を監視カメラやクレジット・カードの使用履歴、特殊なアプリによって追跡することもなく、マスクの義務化・罰金制度などは噂にもなりませんでした。
 ファクターXなど結局なかったのです。みんな日本人の民族性と自覚によって勝ち取ってきました。

 

 日本の感染状況は、オリンピックの観客席にひとりも入れられないほど酷いと報道されていますが、エンゼル・スタジアムで大谷翔平選手の32号のホームランを目撃した、マスクも付けないアメリカ人の観衆は、昨日も単位人口当たりの感染者数で日本の3・4倍、死者数が5・1倍もの国に住んでいるのです。サッカーの欧州選手権で大騒ぎのイギリスは、既に感染の危機を脱したかのように言われていますが、一昨日の統計で日本の15倍の感染者と2・4倍の死者を出しています。

 
 

【誰も誉めてくれないなら自分たちで讃え合おう】

 マスメディアは「政府の対策は行き当たりばったりだ」とか「後手後手だ」とか非難ばかりしていますが、早めに決めて頑固に変えなければ、それでいいというわけにもいかないでしょう。
 政府もそれなりにがんばったと私は思っています。官僚は不眠不休で未曽有の国難に立ち向かいました。政権もそこそこ頑張りました。自民党政権でなければもっと素晴らしい対策が打てたと思う人が多ければ、次の衆議院選での政権交代は簡単に進むはずです。見てみましょう。

 

 ただ、その政府も官僚も、国民を誉めないという点ではマスメディアと同じでした。感謝はすれど誉めることはない。だとしたら、誰も誉めてくれない以上、私たちが互いに誉め、讃えるしかありません。
 よく頑張りました、そして頑張っています。夜明けは目の前です。今しばらく、がんばり続けましょう、お互いに。

 

「道徳教育、あれだけやってもこの程度か」~言わなければ誰も評価しない④追補

 学校は朝から晩まで道徳教育をやっている場だというと、
 それであの程度かといった話になる。
 しかし人間を道徳的にするには時間がかかるのだ。
 大谷家のような、学校に対する信頼と自覚があればこそなのかもしれないが――。

という話。

f:id:kite-cafe:20210708073828j:plain

(写真:フォトAC)

 

 

【日本の道徳教育、あれだけやってもこの程度か】

 昨日は「学校は朝から晩まで道徳教育をやっているようなところ」というお話をしました。しかしそう言うと、

「それだけやってもあの程度か、学校はいじめひとつなくせないではないか」
とおっしゃる方もおられるでしょう。
 前半については同意します。あれだけやってもこの程度なのです。

 そもそも道徳性を身につけるのは大変なことなのです。
 あの孔子ですら「70歳になってようやく、心の赴くままに行っても人の道を踏み外すことはなくなった(七十にして心の欲するところに従えども、矩をこえず)」といい、お釈迦様ですら孫悟空を抑えるのに体罰(キンコジと呼ばれる頭にはめたタガを締め付ける)を使わざるを得なかったのです。

 それを現代の教師は、児童生徒が70歳になるのを待たず、キンコジといった強制力も使わず、言葉ひとつで果たそうというのですから大変です。最近ではその「ことば」も、使い方次第で凶器にもなると規制がかけられようとしています。
 同じ年齢の子に同じようにかけ算九九を教えても、覚えて使えるようになるまでの時間に大きな差があるように、同じように教え、訓練しても、道徳的な言動ができるようになるには個人差があるのです。
 大谷翔平選手は、この点でも才能のある若者だったのかもれません。

 しかし先ほどの苦言の後半部分、「いじめひとるなくせない」には異論があります。
 この論理、「いじめさえ解決できないのだから学校の道徳教育はうまく行っていないに決まっている」は、「特別の教科道徳」創設の時も持ち出されたものですが、聞き捨てならない話です。
 いじめ問題は生徒指導・道徳教育の一丁目一番地、基本中の基本ではなく、最後に残された大問題だからです。

 

 

 【学校は常に対処してきた】

 学校は第二次世界大戦後だけを考えても大変な努力を傾け、生徒指導や道徳教育に当たってきました。
 1950年代は今と違った意味での「不登校」が大問題な時代でした。悪事に忙しくて学校に来る余裕のない子を、学校に戻すのが大仕事だったのです。しかもようやく戻した学校には子どもがナイフを持って向かい合う現実がありました。当時の子どもの筆入れには「肥後守(ひごのかみ)」を始めとする簡便なナイフがいつも入っていて、喧嘩になるとすぐに持ち出されたのです。
「いまの子どもたちはまったく不器用だ。私が子どものころは毎日ナイフで鉛筆を削っていたから、今と比べるととても器用だった」
などと言うご老人がおられますが、学校がどれほど苦労をしてナイフをなくしたのか、知らないからそんなことが言えるのです。

 1960年代後半から80年にかけては、荒れる学校の時代です。私は東京の中学校で教育実習を受けましたが、各階の男子トイレに入れる個室がひとつくらいしかないことに呆れました。みんな壊されてしまうからです(自分たちが使うのに困るのでひとつは残した)。学校の壁には真っ黒なスプレーで書く先生の悪口が絶えません。普通の子が普通の授業を受けられない時代だったのです。それも乗り越えました。

 いじめはその間もずっと存在した問題です。しかし教師はこれに対しても良く対処しました。表立ったところで行われる非道については徹底的に話し合わせ、潰しました。子どもだけでは気づけない人権問題にもメスを入れてきました。その結果、いじめは公然の場から消え、裏通りに回ったのです。いまや表立っては分からない、校外で行われる、ネットを介したものが中心です。とてもではありませんが授業だの行事だのといった日常の教育活動をしながら、解決できるような問題ではありません。

 

 

 【しかしまだ、やっていけるかもしれない】

 ただ、今回大谷選手のことをあれこれ調べながら、日本中の保護者が大谷家のようであったらもう少し頑張れるかもしれないと思ったことがありました。それは今週の始めに紹介した「Newsポストセブン」の記事にあった一節です。
大谷家では、両親が「もっと食べろ」「好き嫌いをするな」とうるさく言うことはなかったという。
「(母親の)加代子さんは『給食で栄養士さんがバランスを考えてくれているので、大丈夫』と大らかに構えていたそうです。


 ほとんどいい加減と言っていいほどのこのおおらかさは、何なのでしょう?
 学校教育への信頼というのも大谷家の大きな美質です。「オレの思ったようにオマエがやれ」といった人がたくさんいる社会で、「この点では学校を信頼してお任せします」「ウチはウチで神経質にならずに子育てに専念します」――そんなふうに言ってもらえたら教師もさぞかしやり易いでしょう。
 周囲の無理難題に応えようとしないで済めば、指導にもブレがなくなり、今よりずっとうまくやっていけるはずです。

 日本の道徳教育全体については、大谷選手の言動を通してアメリカ人を感心させ、東日本大震災の被災者の様子を通して世界を震撼させる程度のことでがまんしてもらうしかありません。

(この稿、終了)

「『私たちが大谷翔平を育てた』と言おう」~言わなければ誰も評価しない③

 アメリカ人の心を震わせる大谷選手の言動も、
 日本国内ではさほど珍しいものではない。
 この国では多くの若者がそのように育てられて来るからだ。
 その中心に、学校がある。

という話。

f:id:kite-cafe:20210707072319j:plain

(写真:O-DAN)
 
 

【私たち教師が大谷翔平を育てた】

 大谷選手が高く評価されている「謙虚で慎み深い」性質は、学校が育てようとしている美質のひとつです。ですから教育する教師もまた謙虚で慎み深く、そのために、自分たちの努力や能力を誇示したりしません。

 子どもが鉄棒で初めて逆上がりできた日、わざわざ家に電話して「お宅のお子さん、私の指導のおかげで逆上がりができるようになりました」と伝える教師はいないでしょう。児童もまた「先生のおかげでできるようになった」とは言いません。教師は黒子に徹底すべきだという道徳律が厳然と生きているからです。

 しかし黙っているとだれも気づかず、評価することもしません。
 だから今こそ、本気で、大声で。教師たちは叫ぶべきなのです。
「大谷選手が合衆国で示し賞賛されている道徳的なありようは、すべて私たちが教え、練習させ、鍛えてきたことだ。つまり大谷翔平選手は私たちが育てた、少なくともその道徳的な部分は彼の家族とともに、私たち教師が育ててきたものなのだ」
と。
 
 

【日本人の道徳性はどんなふうに育てられたか】

 ほとんど意識されませんが、日本の学校は朝から晩まで道徳を教えているような場所です。
 学習指導要領にも、
「特別の教科である道徳(以下「道徳科」という。)を要として学校の教育活動全体を通じて行うもの」
とあるからです。道徳という言葉が耳障りなら「人間関係の学び」と言っておけばいいでしょう。

 朝登校してきたら互いに挨拶をしましょう。先生は大人ですから敬語を使って語りかけなさい、目上の人にはそうするものです。会社に入ってから急に言葉や態度を変えようといったってムリです。

 授業の始めと終わりには先生と一緒に挨拶をします。チャイムが鳴ったらその瞬間から教室は特別な場所、いわば結界ですから、そのつど気持ちを切り替えなくてはいけないのです。

 発言は手を挙げて指名されてからします。みんなが一斉にしゃべり出すのは民主主義のルールに反しますが、それ以前に人間として正しい態度ではないのです。ひとの発言を尊重しない人は自分の発言も尊重してもらえません。しゃべる前にまず聞きなさい。

 給食の準備は全員でします。当番でなければ自分の机の整理をするだけでけっこうですが、当番になったら務めをきちんと果たしなさい。分業と協働はこの国で最も重要な価値のひとつです。自分の仕事は完璧に行い、余裕があったら何か落ちがないか、全体を見回して欠けた部分を補うのです。

 自分の使った場所の掃除はあなた仕事です。黒人やプエルトリコ人といった貧しい人々の専業ではありません。学校で差別を学んではいけないのです。
 掃除の仕方と道具の使い方を覚えましょう。宋の朱熹(しゅき)は「格物致知(かくぶつちち:知をいたすは物にいたるに在り)」と言って客観的な事物そのものから学ぶことの大切さを教えました。床や壁、机や黒板から学びなさい。そのために心を込めて磨くのです。

 帰りの会の前には、きちんと帰宅の用意をします。早くウチに帰りたくても部活に行きたくても、ここは心をいったん鎮め、場と心と人間関係にやり残しがないか、静かに振り返るのです。そして「すべて成し終えた、遺漏はない」と確信したら、「あとみよそわか」と呪文を唱えて静かに先生の来るのを待ちなさい。

――道徳教育の高い理想は、週に一時間しかない「特別の教科である道徳」の授業だけで果たせるものではありません。運動会や文化祭、修学旅行や卒業式といった大きな行事も含めて、「特別活動」と呼ばれる枠の中で行われている道徳教育に多くを負っているのです。
 
 

【部活動も道徳教育の場】

 日本では教育課程のみならず、課外活動であるはずの部活動ですら道徳優先です。大谷選手の出身校である花巻東高校の佐々木監督の指導方針も、
「選手を育てる前に人を育てよう」
でした。
 それが世界に通用するレベルで達成できたという点では偉大ですが、考え方自体は珍しいことではありません。この国ではベースボールですら「野球道」などと言い換えられ、求道的な世界だと考えられます。
「日本一の目指すなら、日本一の全力疾走をしよう」
という佐々木監督の呼びかけは、理念としても具体としても、大谷選手の心身に深く生きています。だから大敗の9回でも、彼は全力疾走で1塁に向かわなくてはならないのです。
 
 

【何を学校から削るべきか】

 最も大事な点は、学校の道徳の実地講習の場が「特別の教科である道徳」ではなく、特別活動や部活であるということです。
 私が行事の精選だの部活の縮小だのに強く抵抗するのはそのためです。

 英語やプログラミングは、日本人を日本人たらしめる最も重要な学習の場(特別活動や部活)を大きく減らしてまでやるべきことではないと思うのです。それらを減らすくらいなら、数学や国語の削減も厭いません。普通の大人は連立方程式や関数、漢文や古文なんてできなくても困らないでしょ? でもこの国ではきちんと挨拶をしたり身の回りを整えたり、さりげなく人助けをしたりといったことができないと、豊かな人生を送ることが難しいのです。おもてなしや気遣いは流ちょうな英語よりはるかに重要です。

 とりあえず平成以降に加わった追加教育(総合的な学習の時間だの小学校英語だの、あるいはキャリア教育だのプログラミング教育だの)は、全部外してみる価値があります。

(この稿、続く)
 

「誰が日本人を『日本人』に育ててきたのか」~言わなければ誰も評価しない②

 世界に誇る日本人の美質をDNAのせいにして、
 自然に備わったかのように説明する人たちがいる。
 しかしそんなことはないだろう。
 日本人の道徳性は、誰かが真剣に考え、教え、訓練してきたのだ。

という話。

f:id:kite-cafe:20210706074718j:plain

(写真:O-DAN)
 
 

【日本人の道徳性はDNAのおかげか】

 アメリカの球場で大谷翔平選手が自然な姿として見せる数々の美徳――グランドのごみを拾うとかダッグアウトを汚さない、敵・味方・観客を問わず親切に扱う、謙虚で慎み深く純粋だといったことは、アメリカだから賞賛されるのであって、わが国ではさほど珍しくないことを私たちは知っています。
 しかし日本で珍しくないことを説明するのに、DNAを持ち出すのはいかがなものでしょう。
「こうした美徳は日本人のDNAに刷り込まれた――」
といった使い方をします。

 気楽にネット検索にかけても、簡単に見つけ出すことができます。
『「文明度」に関しては現在我が国が世界で一,二位を争っていることは事実である。それは,科学技術立国を標榜して来た我が国の科学と技術の成果,それに伴う経済力の強さ,国民の学力水準の高さ,及び数千年の長きにわたって日本人のDNAに刷り込まれた几帳面さ,努力心,勤勉さ,忍耐強さ等によって獲得されたものである』
 ある有名な大学の先生が学会誌に寄稿した文章の一節です。

 しかしDNAのおかげと言ってしまうと誰も何の努力もしなかったことになってしまいます。まさに、
「(D)誰かが、(N)なんとなく、(A)温めた」、日本人なら誰でも持っていて当然の資質ということになるのです。
 しかしそんなことってあるでしょうか? 日本人の両親から生まれた子なら、どこの国の人に育てられても日本人になってしまうのでしょうか?
 
 

【昔の人間はどこまで立派だったか】

 もちろんそんなことはありません。そもそもいま賞賛されるような日本人の美質を、昔から持っていたかどうかだって怪しいのです。

 私が子どもだった半世紀前ですら、日本の道路なんて見られたものではありませんでした。路上喫煙の吸い殻は道に捨てるのが当たり前で、雨が降ると汚れたフィルターが一斉に流れて歩道脇に溜まっていたものです。
 駅の構内には痰壺と呼ばれる白いホーロー製の壺があって、男たちはそこに痰を吐きました。しかもそれはきちんとした男性の話であって、普通は線路に向かって、時にはプラットフォームの床上でも、平気で吐き散らかしたものです。前夜飲みすぎた酔漢の嘔吐物があちこちに散らかっていましたから、痰くらいは苦にならなかったのでしょう。

 今でこそ日本製品は質が高いと相場が決まっていますが、太平洋戦争前の日本の製品は「安かろう悪かろう」が当たり前でした。第一次世界大戦でヨーロッパの工業が壊滅的になったので、何をつくっても売れたのが悪弊の始まりでした。その悪評を覆すのに何十年もかかったのです。
 NHK大河ドラマ「青天を撃け」で間もなく出てくるはずですが、渋沢栄一の最も努力を傾けたのは日本人の商道徳の確立です。明治初期の日本人は“納期を守らない”“契約後に値下げ(または値上げ)交渉を始める”など、外国人からはまったく信用がなかったのです。

 一昨日のニュースで、アメリカの宅配では置き配が一般的なのに、最近玄関先から盗まれることが多くて困るという話題を扱っていました。しかし玄関まで届くだけでも昔の日本よりマシなのかもしれません。大正時代の日本の運送業における最大の問題は、業者による荷抜きです。送ったものが途中で抜き取られて、きちんと届かなかったのです。

 吉原の医者は血液検査を偽って陰性の女性に高価な注射を何本も打ったりします。教師のわいせつ行為もいまよりずっと多かったのですが、驚くべきは放火・殺人といった重犯罪も少なくなく、わいろを使っての昇進というのも日常茶飯でした。もっとも校長と警察署長と市長の給与・待遇が同じという時代ですから、ムリしても昇任する価値があったのでしょう。

 遺伝子が今日の私たちの道徳性を培っているとしたら、日本人はとんでもない悪徳民族に育っていたはずです。それを誰かが押しとどめ、是正し、古い日本人の美質をさらに高めて古い日本人の悪徳を何年もかかって矯正した。そういう人ないし組織があった、そう考えないと今日の日本人を理解することはできません。
 
 

【誰が日本人を「日本人」に育ててきたのか】

 この国で組織的・計画的に道徳教育を実施してきた存在としては、保育園や幼稚園を除けば学校以外考えられません。西欧諸国ではキリスト教が、中東やアフリカではイスラム教が、ソ連ではボリシュビキ、中国や北朝鮮では共産党労働党が果たしてきた役割を、日本では学校教育が担ってきたのです。

 道徳(今は「特別な教科道徳」)の時間に教室で基礎基本を学び、当番活動だの児童生徒会だの、運動会や文化祭、修学旅行といった特別活動、そして部活動などの課外活動を通して、うんざりするほど実地講習を行って育て鍛えてきた――、それが日本人の高い道徳性なのです。

 大谷選手が四球のバットを丁寧に置く仕草、噛んだヒマワリの種の殻を紙コップに捨てる姿、観客がグランドに落とした物を拾って投げ返してやる様子から、幼保・小中・高校に在籍している間じゅう、「ものを大切にしましょう」「できるだけゴミを出さないようにしましょう。自分のゴミは自分で始末しなさい」「人に迷惑をかけてはいけません」「困っている人がいたら助けてあげましょう」としつこいほどに教えられ、練習されてきたことを想像するのは容易なことです。大谷選手が直接に指導されなくても、そう指導され続ける中で育ってきたことが、今の大谷翔平をつくっているのです。

(この稿、続く)