片方でこの夏も金を払って免許更新をしている教師がいるというのに、
他方、九州では資格のない人に、
ただで教員免許を渡して学級担任をやってもらっているという。
しかも、それには無理なからざる事情があるというのだ。
片方でこの夏も金を払って免許更新をしている教師がいるというのに、
他方、九州では資格のない人に、
ただで教員免許を渡して学級担任をやってもらっているという。
しかも、それには無理なからざる事情があるというのだ。
東京都が4回目の緊急事態宣言だそうで、オリンピックも1都3県(神奈川・埼玉・千葉)の競技会場は無観客になるそうです(他にどこがあるんだっけ?)。ほんとうにがっかりです。
別にオリンピックファンでもありませんし、大いに盛り上げたいと思っていたわけでもありませんが、2020夏季オリンピックに立候補した6都市、アゼルバイジャンのバクー、カタールのドーハ、トルコのイスタンブール、スペインのマドリード、イタリアのローマ、日本の東京――この中で、コロナ禍にもかかわらず開催できるとしたら日本だけだと思っていたので、少しでもいい状況でと願っていたのですが残念です。
ほとんどのマスコミはここ数カ月のあいだ「反オリンピック」の論陣を張っていましたから、いざ始まっても取材に行く社は少なく、NHKと外国のメディアをのみを通じて結果やようすを知ることになるでしょう――何とも寂しいことです(と、八つ当たり)。
当初の予定ではワクチン接種は2月に始まると聞いていましたから、いくら何でも5カ月もあれば希望者の大部分に接種が終わり、7月には無事開幕、と考えていたのですが、どういう事情か遅れに遅れ、7月いっぱいで何とか高齢者に打ち終えるのがやっとということになってしまいました。
しかしそれでも日本国民が頑張って感染を広げないようにすれば、外国の観客は来られなくても、日本人の観衆でスタジアムを半分程度は埋め、それなりに盛り上げて・・・と思った時期もあるのですが、4月から5月にかけて爆発的な感染拡大をしてしまった近畿・中京・北海道・福岡県あたりは急速に感染を減らしたのに対して、肝心の首都圏はあまりにも頑張りが足りなかった、というか4月5月に頑張りすぎて他の道府県ほど感染を拡大させなかった分、いまごろになって燃え差しに火がついたのかもしれません。
しかしその予兆はあったのです、というかあまりにもあからさまでした。繁華街の人出が急速に増えつつあったからです。ダメだよ、ダメだよと言えば言うほどいけない方向に進んでしまうのは、小中学校の一部の子にありがちなことです。
しかし1万人にひとりかもしれない小学生のような「酒がどうにも我慢ができない人」が、首都圏には3400人~3800人余りもいるのです、この人たちが夜な夜な繁華街に出てどんちゃん騒ぎをし、家庭や職場に戻って感染を広げるわけですから止まらないわけです(原因を酒飲みに限定しているのも八つ当たりです)。
私は普段は飲まない人間なので、飲まずに済ませることのできない人たちには本気で苛つきますが、それでも笑って許して差し上げましょう。そういう子どもはたくさん見て来たし、ほかの面では私自身にも「わかっちゃいるけどやめられない」(スーダラ節)ことはたくさんあるのですから。
しかし悪いことにばかりに目を向けるのはやめましょう。この1年半余り、私たちはよく戦ってきたのです。
ここまでの人口10万人あたりの感染者数はおよそ643人。他の先進国と比べると合衆国の6・2%、ドイツの14%、イギリスの8・5%、フランスの7・0%にしかなりません。
死者は10万人あたり11・8人。同じ計算で合衆国の6・3%、ドイツの10・7%、イギリスの6・1%、フランスの6・9%です。
もちろんお隣の韓国や台湾、少し南下してシンガポール、オーストラリア、ニュージーランドなどは日本よりずっと成績が良いですし、始まりの中国は10万人あたりの感染者数で日本の1割、死者は2・8%しかありません。実数でも死者は昨年4月18日以来、1年3か月で4人増えただけです(ホントかな?)。
意外なことに、南アフリカ共和国と地中海沿岸の国々を除くアフリカ諸国には、日本が足もとにも及ばないほど成績の良い国がいくつもあるのです(エボラ出血熱のような最悪の感染症に何度も襲われているため、むしろ感染症対策が徹底されているからと言われています)。
しかしそれぞれにはそれぞれのやり方や「運」があるのです。日本は一都市まるまる見殺しにするような厳しいロックダウンも、普通の意味でのロックダウンもせずにここまで来ました。感染者の通った経路を監視カメラやクレジット・カードの使用履歴、特殊なアプリによって追跡することもなく、マスクの義務化・罰金制度などは噂にもなりませんでした。
ファクターXなど結局なかったのです。みんな日本人の民族性と自覚によって勝ち取ってきました。
日本の感染状況は、オリンピックの観客席にひとりも入れられないほど酷いと報道されていますが、エンゼル・スタジアムで大谷翔平選手の32号のホームランを目撃した、マスクも付けないアメリカ人の観衆は、昨日も単位人口当たりの感染者数で日本の3・4倍、死者数が5・1倍もの国に住んでいるのです。サッカーの欧州選手権で大騒ぎのイギリスは、既に感染の危機を脱したかのように言われていますが、一昨日の統計で日本の15倍の感染者と2・4倍の死者を出しています。
マスメディアは「政府の対策は行き当たりばったりだ」とか「後手後手だ」とか非難ばかりしていますが、早めに決めて頑固に変えなければ、それでいいというわけにもいかないでしょう。
政府もそれなりにがんばったと私は思っています。官僚は不眠不休で未曽有の国難に立ち向かいました。政権もそこそこ頑張りました。自民党政権でなければもっと素晴らしい対策が打てたと思う人が多ければ、次の衆議院選での政権交代は簡単に進むはずです。見てみましょう。
ただ、その政府も官僚も、国民を誉めないという点ではマスメディアと同じでした。感謝はすれど誉めることはない。だとしたら、誰も誉めてくれない以上、私たちが互いに誉め、讃えるしかありません。
よく頑張りました、そして頑張っています。夜明けは目の前です。今しばらく、がんばり続けましょう、お互いに。
学校は朝から晩まで道徳教育をやっている場だというと、
それであの程度かといった話になる。
しかし人間を道徳的にするには時間がかかるのだ。
大谷家のような、学校に対する信頼と自覚があればこそなのかもしれないが――。
という話。
(写真:フォトAC)
昨日は「学校は朝から晩まで道徳教育をやっているようなところ」というお話をしました。しかしそう言うと、
「それだけやってもあの程度か、学校はいじめひとつなくせないではないか」
とおっしゃる方もおられるでしょう。
前半については同意します。あれだけやってもこの程度なのです。
そもそも道徳性を身につけるのは大変なことなのです。
あの孔子ですら「70歳になってようやく、心の赴くままに行っても人の道を踏み外すことはなくなった(七十にして心の欲するところに従えども、矩をこえず)」といい、お釈迦様ですら孫悟空を抑えるのに体罰(キンコジと呼ばれる頭にはめたタガを締め付ける)を使わざるを得なかったのです。
それを現代の教師は、児童生徒が70歳になるのを待たず、キンコジといった強制力も使わず、言葉ひとつで果たそうというのですから大変です。最近ではその「ことば」も、使い方次第で凶器にもなると規制がかけられようとしています。
同じ年齢の子に同じようにかけ算九九を教えても、覚えて使えるようになるまでの時間に大きな差があるように、同じように教え、訓練しても、道徳的な言動ができるようになるには個人差があるのです。
大谷翔平選手は、この点でも才能のある若者だったのかもれません。
しかし先ほどの苦言の後半部分、「いじめひとるなくせない」には異論があります。
この論理、「いじめさえ解決できないのだから学校の道徳教育はうまく行っていないに決まっている」は、「特別の教科道徳」創設の時も持ち出されたものですが、聞き捨てならない話です。
いじめ問題は生徒指導・道徳教育の一丁目一番地、基本中の基本ではなく、最後に残された大問題だからです。
学校は第二次世界大戦後だけを考えても大変な努力を傾け、生徒指導や道徳教育に当たってきました。
1950年代は今と違った意味での「不登校」が大問題な時代でした。悪事に忙しくて学校に来る余裕のない子を、学校に戻すのが大仕事だったのです。しかもようやく戻した学校には子どもがナイフを持って向かい合う現実がありました。当時の子どもの筆入れには「肥後守(ひごのかみ)」を始めとする簡便なナイフがいつも入っていて、喧嘩になるとすぐに持ち出されたのです。
「いまの子どもたちはまったく不器用だ。私が子どものころは毎日ナイフで鉛筆を削っていたから、今と比べるととても器用だった」
などと言うご老人がおられますが、学校がどれほど苦労をしてナイフをなくしたのか、知らないからそんなことが言えるのです。
1960年代後半から80年にかけては、荒れる学校の時代です。私は東京の中学校で教育実習を受けましたが、各階の男子トイレに入れる個室がひとつくらいしかないことに呆れました。みんな壊されてしまうからです(自分たちが使うのに困るのでひとつは残した)。学校の壁には真っ黒なスプレーで書く先生の悪口が絶えません。普通の子が普通の授業を受けられない時代だったのです。それも乗り越えました。
いじめはその間もずっと存在した問題です。しかし教師はこれに対しても良く対処しました。表立ったところで行われる非道については徹底的に話し合わせ、潰しました。子どもだけでは気づけない人権問題にもメスを入れてきました。その結果、いじめは公然の場から消え、裏通りに回ったのです。いまや表立っては分からない、校外で行われる、ネットを介したものが中心です。とてもではありませんが授業だの行事だのといった日常の教育活動をしながら、解決できるような問題ではありません。
ただ、今回大谷選手のことをあれこれ調べながら、日本中の保護者が大谷家のようであったらもう少し頑張れるかもしれないと思ったことがありました。それは今週の始めに紹介した「Newsポストセブン」の記事にあった一節です。
大谷家では、両親が「もっと食べろ」「好き嫌いをするな」とうるさく言うことはなかったという。
「(母親の)加代子さんは『給食で栄養士さんがバランスを考えてくれているので、大丈夫』と大らかに構えていたそうです。
ほとんどいい加減と言っていいほどのこのおおらかさは、何なのでしょう?
学校教育への信頼というのも大谷家の大きな美質です。「オレの思ったようにオマエがやれ」といった人がたくさんいる社会で、「この点では学校を信頼してお任せします」「ウチはウチで神経質にならずに子育てに専念します」――そんなふうに言ってもらえたら教師もさぞかしやり易いでしょう。
周囲の無理難題に応えようとしないで済めば、指導にもブレがなくなり、今よりずっとうまくやっていけるはずです。
日本の道徳教育全体については、大谷選手の言動を通してアメリカ人を感心させ、東日本大震災の被災者の様子を通して世界を震撼させる程度のことでがまんしてもらうしかありません。
(この稿、終了)