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「キース・アウト」
2019.09.25
教員4人が同僚にいじめ「羽交い締めされ激辛カレー」
[朝日新聞 10月 4日]
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結婚式に招かれて岩手に行くのに一気に行けないので中継地ということで決めた秋保温泉、決め手は「宿はできれば高速インターからあまり離れていないところ。温泉が趣味の妻のことを考えると源泉かけ流しの風呂がなくてはなりません」と以前、書きました(「行きたいところが多すぎて立てられなかった旅行計画が、一発で決まってしまった話」 - カイト・カフェ)。今はネット社会。木曜日ということもあって前日予約なのにあっという間に手続きができました。しかもかなり格安。
夜のチェックインで景色もわからず(翌朝見ても大したことはなかった)、部屋は煙草のにおいが残っていて多少の不満はありましたが、泉質はなかなかなもので料金を考えればまずまずです。
(写真ACからの写真)
大川小学校から直線距離で2kmほどにある尾勝小学校では津波警報が出ると校舎2階に避難することを考え、しかしそこはガラスが散乱していたので使えず、次に体育館を考えたものの卒業式準備でワックスを塗ったばかりでここも入れない。そこでしかたなく学校わきの高台の神社に避難して事なきを得ています。結果的には校舎2階に避難しても体育館に移っても、助からない命でした。地域の保護者からの情報もあったということです。(宮城県教職員組合編「東日本大震災 教職員が語る子ども・いのち・未来」)
あるいは牡鹿半島の鮫浦湾に面した谷川小学校では、地震直後、子どもたちを校庭に避難させ、職員は体育館に避難所開設の準備を始めました。そこへ地域をよく知る消防団員がきて、津波が来るから今すぐ高台へ上がれと強く促します。
防潮堤にいた仲間からの合図で津波が目の前まで迫っていることを知った消防団員は大声で叫び、子どもたちは一目散に学校向かいの県道に駆け上ってそこから見守りますが、わずか数分後、津波は学校に襲いかかって引き波は体育館を持ち去ってしまいました。
さらに湾の底が見えるような大きな引き波にもっと大きな津波が来ることを予見した消防団員はもう一段高い位置まで子ども誘導し、ここでも子どもたちは命を救われます。次に来た津波は、先ほどまでいた場所から自家用車を持ち去ってしまったからです。
やがて雪が降ってきます。そのままでは夜は過ごせません。すると消防団員は谷川小学校の裏手の山の祠で、昔、津波から難を逃れた人がいたという言い伝えを思い出し、そこまで移動することを提案します。
祠に行くにはいったん小学校の横まで降りなくてはなりません。教職員の中には心配する声もありましたが、消防団員の説得で津波の合間を縫って強行突破しました。おかげで子どもたちは祠の中で温かく一夜を過ごすことができました。
こうして谷川小学校の児童・教職員は全員、無事生還できたのです。
(「あの時、わたしは」谷川小- NHK総合1・仙台)
谷川小学校の子どもたちは地元の人たちの助言によって校庭を離れ、大川小学校の子どもたちは地元の人の言葉に縛られて山に登ることができなかった。一人も死者・行方不明者も出さなかった学校と74人も死なせてしまった学校の差は、その程度でした。
地元の人といえば、気仙沼向洋高校の生徒たちは地元の人たちが動かないのを見ても止まることなく走り続けました。それは結果的に正しい行動だったのですが、もし津波がもっと早い時間に到達していたら、住民と一緒に巻き込まれていたのかもしれません。そうなれば堅牢な学校の4階屋上に逃げなかった判断は、厳しく非難されたことでしょう。向洋高校の屋上は津波に洗われなかったからです。
また、“走って逃げた”といえば、伝説となった「釜石の奇跡」でも、釜石東中学校の生徒たちはかなり長い距離を走っています。なだらかな上り坂を、しかもかなりの部分は川沿いです。
伝説によると、中学生は全く大人の指示を受けることなく自分たちで判断して、3度にわたって避難場所を変更しつつ、ついに高台に難を逃れたということになっていますが、そんなことはありません。それぞれの場所で地元の人たちの助言に従って校長が判断して決めたのです。
(「津波から生き延びる 釜石東中学校の報告」他。ただし校長は当日不在で、指示・判断したのは副校長だったという話もある)。
それも助かったからいいようなものの、津波がもっと早くに到達して川を遡っていたら生徒は大川小学校の子どもたちと同じ目にあっていたはずです。のちに専門家のひとりは中学校の裏山にまっすぐ上るべきだったと言っています。
釜石東中学校の生徒は裏山に登りませんでした。大川小学校の子どもたちも裏山に登りませんでした。
「釜石の奇跡」には、2004年から釜石市の防災・危機管理アドバイザーとして津波避難を指導してきた片田敏孝(当時群馬大学)教授の、自画自賛的な誇張があると私は思っています。
「生存率99.8%」にしても、その日、病気などのために在宅で被災した小中学生のうち、津波被害で亡くなった子どもは5名でこれが99.8%の根拠です(当時の釜石市の全児童生徒数は2936名)が、地理的にも近く地形も似ている気仙沼市も小中学生5688人中亡くなったのは11名で、これも「生存率99.8%」です。
“奇跡”は釜石だけで起こっていたわけではないのです。
もちろん石巻市や東松島市、名取市といった場所では被害者も多く、子どもを引き取った保護者が車で危険地域へ向かったり、石巻の日和幼稚園では園バスを海岸に向けて走らせたりと、市町村としての津波対策や防災意識不備があったことも事実です。しかし同時に、街の規模や地形、津波の到達時間といった要素も考えておかなくてはなりません。
釜石に比べると石巻は津波の到達時間が5分遅く、その分、保護者は児童生徒を引き取る余裕がありました。また基本的に海沿いの街から山の手の住宅街に避難する釜石や気仙沼に対し、石巻や名取には学校より海側に住宅のある例も少なくなかったのです。
その石巻市でさえ、小中学生の生存率は大川小学校の74名を計算に含めても98.6%です。
津波が夜間だったり休日だったりした場合を考えると、いったいどれほどの子どもが犠牲になったのか――。校舎の堅牢さといった部分も含めて、いかに学校が優れていたかは容易の想像できます。
「釜石の奇跡」では児童生徒の自主性を強調するあまり、事実を曲げて、あたかも避難に大人が一切かかわらなかったような表現が一般化しました。その結果、「釜石では子供たちが先生の指示を聞かずに動いたために助かって、大川小学校では指示に従ったために助からなかった」とか「大川小学校では子どもが教師に殺されてしまった」とか言った極端な見方も横行しました。
大川小学校を除けば学校管理下で死者・行方不明者を出した学校はひとつもなかったという事実は忘れられ、学校は辱められ、大川小学校職員の遺族は苦しめられました。
まさかそんなことはないと思いながら、私もあの時期、親から「災害のときは先生の言う通りにしないで、自分で判断して行動しなさい」と教えられた子どもたちが、いざというときにそれぞれ勝手に走り出す悪夢を想いました。
大川小学校の遺族の中に夫婦で中学校の教員をやっていた人がいました。その人はこんなふうに言っています。
「やっぱりね、生き残ったA先生のお気持ちをどうしても考えるわけですよ。それとね、流されてしまった先生たちの無念さも感じます。だって、子どもを救えなかったことは、先生たちにとっては非常につらいことだったはず。子どもに対して、本当に申し訳ないと思っていると思う。私は失敗してしまったと、たぶん、あの波にのまれた瞬間、あるいはあの世でも、そう思っていると思うんですよ」(「あのとき、大川小学校で何が起きたのか」)
私もそう思います。
人間は命に係わる瞬間、本能的にわが身を守る行動を取るといいます。例えば車で正面衝突しそうなとき、助手席の家族を差し出すような形になってもハンドルを切ってしまうと。
大川小学校の職員も、津波に飲み込まれる瞬間は思わず回避行動を取ったかもしれません。しかしその目と頭と心は、自分のことでも家族のことでもなく、目の前で自らの手の指の間から、漏れ落ちていく子どもの命を見ていたに違いありません。
無念と言うでもなく、切ないと言うでもなく、申し訳ないと言うでもない――決して言葉では表すことのできない絶望――。
もしもあの世でも、子どもたちに対して本当に申し訳ないと思い続け、自分は失敗してしまったと考えなければならないとしたら、私はあの世なんていりません。
(「被災地を巡る旅」終わり)
(参考文献)
「あのとき、大川小学校で何が起きたのか」
「学校を災害が襲うとき: 教師たちの3.11」
「東日本大震災 教職員が語る子ども・いのち・未来」
突然の地震・津波であったにもかかわらず
十分な計画と準備のできていた学校がいくつかある
彼らはどのようにして準備を重ね
避難することができたのだろうか
というお話。
(仙台市立荒浜小学校屋上から海を望む)
一日目の終わりは石巻市内のビジネスホテルに泊まり、二日目は石巻市立門脇小学校を見学して、それから仙台市立荒浜小学校に回って計画は終わり。疲労を考えながらあとは気ままに、今日自宅に戻ってもよし、明日以降帰るのもよしと、そんなふうに考えていたのです。ところが計画は最初から躓きます。
お目当ての門脇小学校は震災遺構として来年の公開に向けて工事中だったのです。
校舎全体に幕がかかっていて中を窺い知ることはできません。
手前に墓地があるのは何か象徴的ですが、これは以前からあったものなのでしょう。墓石は妙に新しい一群と古いものがあり、がれきの中から回収できたものとそうでないものの違いかもしれません。あるいは一部は、津波の被害者が入る、そもそもまったく新しい墓なのかもしれません
防災という意味でのこの学校の特徴は、津波警報の際の避難所に指定されていなかったということです。「津波に対しては危険」というお墨付きだったのです。
金曜日にお話した“市教委に最も早く報告にきて帰れなくなった女性校長”はこの学校の人で、震災の年の3月末に定年退職が予定されていました。過去の宮城沖地震(近いところから2005年、1978年など)に記憶があり、地震や津波に対する感性の強い人です。
3月11日も過去の地震と対比してこれはただごとではないと察知し、津波警報が出ると迷わず裏手の日和山に児童を避難させる決心をします。300名あまり児童はこうして津波を生き延びました(ただし避難の前に一部、迎えに来た保護者に子どもを渡してしまったことは、のちのち深く後悔することになりました)。
門脇小学校を襲った津波は一階部分を半分ほど沈めただけでしたが、校庭に集まっていた自家用車が大量に流入し、それに引火したために校舎全体が焼け落ちてしまいます。周辺の住宅地も以前の姿に戻されることはなく、門脇小学校も閉校となりました。
現在は学校を中心として復興祈念公園を整備しており、校舎も震災遺構として来年には公開されるようです。
どうやら私は中途半端でした。陸前高田では道の駅「高田松原」の8年ぶりの再開当日、しかも時間前に行ってしまいましたし、門脇小学校も、訪れるならもっと早く、あるいはもう少し遅く来るべきでした。
次の目標は石巻から1時間ほどかかる「震災遺構・仙台市立荒浜小学校」。開館は10時です。余った時間を市内で少しつぶして、それから仙台に向かいました。
仙台市立荒浜小学校は「釜石の奇跡」と並び称されるほど完璧な準備ができていたことでつとに有名になった学校です。
砂浜海岸までわずか500m。日常的に海の見える学校で、気仙沼向洋高校と同じく「危険だから安全」だった学校です。ただ高校と違って小学校は地域との関係が濃密で、避難計画には最初から住民が織り込まれていました。
避難計画の見直しは大震災の前年のチリ沖津波のときに行われました。そこで住民から出された要望、
① 正規の避難所である七郷小学校とは4kmほど離れており、移動するのが困難。
② 特に高齢者は一時避難所である荒浜小学校に避難するのがやっとである。
③ また高齢者、特に足の不自由な者が4階まで上がるのは難しい。
④ 学校前の市道は渋滞を起こし、スムースに通行できない。
はすべて考慮され、荒浜小学校は正規の避難所に格上げされて災害備蓄も1.5倍、800人の住民が最低3日間は生活できるようになったのです。いざ津波となったら荒浜小に籠城する――そういう覚悟で毛布や扇風機なども体育館ではなく、校舎3階に蓄えられました。
3月11日の津波は高さ10m、校舎2階の半分ほどにもなりました。しかしすべて計画通り、「住民の割り振りは教室に町会ごと」といった配慮もできていたので、その後の“籠城生活”は非常にうまくいきました。荒浜小学校に避難した320名はヘリコプターで釣り上げるなどして、翌朝まで全員が被災地を後にしています。
ちなみに東日本大震災は教職員が在校中に起こりましたが、これが深夜であっても、地域の担当者が学校を開き、住民を割り振る手はずができていたようです。
震災遺構としての荒浜小学校には、ほかの遺構にはない極めて特徴的な展示がありました。それは小学校の開校まで遡って振り返るものです。
ある意味で私のような震災の様相を見に来た者には必要ない展示ですが、地域の人々にとっては切実です。津波によって町は失われ、荒浜小学校も閉校となったからです。地域も学校も二度と戻ってこない中で、校舎は記念碑的な意味合いも持っているのです。地域といかに密接だったかがうかがえる事実でもあります。
門脇小学校や荒浜小学校のように完璧な避難のできた学校があったことを思うと、大川小学校の事件はあまりにも残酷で愚かなようにも見えます。しかし一部の例を除けば、他は決して万全の態勢で津波から避難できたわけではなかったのです。
(次回最終)
高台に避難せず校庭に留まった空白の50分間
教頭はさかんに校長に連絡を取ろうとしていた
そのとき校長はどういう対応をしたのか――
今となってはわからないが
いずれにしろ 校長に責任がある
というお話。
(石巻市立大川小学校跡地《パノラマ画像3》)
kite-cafe.hatenablog.com ですから私だったら早い段階で、「三角地帯」へ移動することを考えたでしょう。もちろんそこも安全ではなく、結果論から言えばむしろ一人も助からないような場所でしたが。
なぜあの日 大川小学校の職員はぎりぎりまで子どもを避難させなかったのか
なぜあの時 目の前の山に登ることを考えなかったのか
なぜ 大した高台でもない「三角地帯」をめざしたのか
なぜ 県道を通らず 細い裏道を通って避難しようとしたのか
――私は知っている
というお話。
(石巻市立大川小学校跡地《パノラマ画像2》)
なぜあの日、大川小学校の教職員たちは高台に避難せず50分間にわたって校庭に留まったのか、なぜ津波到達の1分前になって避難を始めたのか、なぜ数十秒で登れる裏山ではなく橋のたもとの三角地帯を選択したのか、なぜ正面の県道を通らず民家の裏通りから三角地帯に向かおうとしたのか・・・。
地域の人々の落ち着きや学校の防災マニュアルに津波の避難先がないことには理由がありました。
大川小学校のある釜谷地区は市のハザードマップでも津波の浸水地域されていなかったのです。1933年の昭和三陸津波でさえ、到達先はそこから3kmも下流。チリ津波は防波堤を越えることができませんでした。
誰も津波の到達を予想しておらず、防災マニュアルの「津波の際は高台に避難」も、単に市のひな型を書き写しただけのものでした(必要な学校はその部分を具体的な場所に書き換えた)。
どんなに大きな地震があろうとも津波はここまで来ない――それが釜谷の常識で、カーラジオなどで情報を確認し、一刻も早く高台に逃れようとした人はほとんどいませんでした。ごくわずか、本気で逃げ出そうとした人も、集落の外れで逆に地区内に戻るよう説得されたくらいです。
東日本大震災の津波のために、当時109世帯393人の集落だった釜谷地区から197人の死者・行方不明者が出てしまいます。人口のおよそ半分が一瞬で失われたことになります。日中の津波でしたから地区外に働きに出ていた人を考えると、そのとき釜谷地区にいた人の9割以上が亡くなったと思われます。
地域にそれほどまでに津波に対する危機意識がなかった以上、学校の意識の低さだけを非難することは難しいのかもしれません。
石巻市立大川小学校跡地にきて ようやく旅の目的に気づいた
私はここに来たかったのだ ここにきてあの日を感じたかった
同じ教師として あの日の大川小学校職員がどう誤ったのか
それを感じ取りたかった
というお話。(石巻市立大川小学校跡地《パノラマ画像》)
ナビに従ってとんでもない山道を長く走らされた後、平地に出て5分ほど走ってなだらかな坂を上り、北上川の堤防に入るとテレビで見慣れた萌黄色の鉄骨が見えました。
(下はありし日の小学校周辺《鎌谷地区》の航空写真)
写真正面の小さな山の向こうに海はあります。また学校の周辺は住宅で囲まれていますから、川に何らかの異変があっても気づくことはできません。