カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

常識的に考えてありえないことは、実際にない

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 更新しました。

「キース・アウト」

          
2019.09.25
教員4人が同僚にいじめ「羽交い締めされ激辛カレー」

                        [朝日新聞 10月 4日]
              
               
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kieth-out.hatenablog.jp

 

「とぼけた話の往路四題」~まじめな旅行のあきれた事件簿①

 往路は歴史と文学の旅 帰路は震災を想う旅
 かなりまじめな旅行のつもりだったが事故は起こる
 「そんなアホな」と思うことの往路4連発!
   『知らなければ観光地ですらない』
   『制限速度120㎞/hの不満』
   『Uターンを2回』
   『寝室 奇抜』

という話。

f:id:kite-cafe:20191009064754j:plain(見るべきだった秋保温泉磊々峡《写真ACからの写真》)

 【知らなければ観光地ですらない】

  結婚式に招かれて岩手に行くのに一気に行けないので中継地ということで決めた秋保温泉、決め手は「宿はできれば高速インターからあまり離れていないところ。温泉が趣味の妻のことを考えると源泉かけ流しの風呂がなくてはなりません」と以前、書きました(「行きたいところが多すぎて立てられなかった旅行計画が、一発で決まってしまった話」 - カイト・カフェ)。今はネット社会。木曜日ということもあって前日予約なのにあっという間に手続きができました。しかもかなり格安。

 夜のチェックインで景色もわからず(翌朝見ても大したことはなかった)、部屋は煙草のにおいが残っていて多少の不満はありましたが、泉質はなかなかなもので料金を考えればまずまずです。

 遅い到着で夕食こそ食べられなかったものの(そういうコースにしてあった)翌朝の朝食バイキングは味も量も種類も素晴らしく、妻などは日ごろ小食なのに欲をかいてたくさん食べたのであとで私がひどい目にあいました(昼食がとんでもなく遅くなった)。
 以上、感想、終わり。中継地に選んだ温泉なんてそんなものです。

 ところが旅行から帰ってきて「秋保温泉」に一泊したというと会う人会う人、「いいところに泊まったな」「え? 秋保温泉? どうだった?」と、みんな知っているのです。
 「秋保大滝、見たかい?」「なんか有名な渓谷があったよね」・・・全部わかりません。
 後で調べると、けっこうな有名温泉で、
秋保温泉(あきうおんせん)は、宮城県仙台市太白区秋保町湯元(旧国陸奥国、明治以降は陸前国)に位置する温泉である。仙台都心からも近いため、宿泊のみならず、日帰り入浴にも利用されている。同じ宮城県鳴子温泉福島県飯坂温泉とともに奥州三名湯の1つとして数えられる。また古くは『名取の御湯』と呼ばれ、兵庫県有馬温泉愛媛県道後温泉と並んで『日本三名湯』の1つに数えられた」
「秋保大滝(あきうおおたき)。国の名勝に指定されており、日本の滝百選の1つにも数えられる。諸説あるが『日本三大名瀑』あるいは『日本三名瀑』の1つに数えられることがある」

(以上、Wikipedia
 なぬ?
「磊々峡(らいらいきょう)。仙台市中南部秋保温泉のある河岸段丘名取川が下刻してできた約 1kmの長さの峡谷で,石英安山岩質角礫凝灰岩の甌穴 (おうけつ) と奇岩怪石がすばらしい。温泉入口ののぞき橋からの眺めがよい」
コトバンク:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説)
 なぬ? なぬ? なぬ?
 そろって4時半には目を覚ましている夫婦。朝食までに2時間もあったのですから文字通り「朝飯前」の仕事だったのに、「日本三名湯」の感慨も味合わず「日本三名瀑」「磊々峡」も見ないで帰ってきてしまった!
 
 

【制限速度120㎞/hの不満】

 東北自動車道の花巻南インターを過ぎたら見慣れない道路標識に出会いました。
 これです。

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 日本国内に最高速度120km/hの高速道路があるなんて全く知りませんでした。周りの車はビュンビュン飛ばしていきます。今年の3月から花巻南ー盛岡南間(約27km)が試験的に最高時速を120km/hになったのです。走行車線が120km/hですから追い越し車線はどれくらい出ているかわかりません。
 一方、左の車線は大型貨物など80km/h制限の車が走っていますから、こちらに身を寄せると遅すぎます。
 そこで私も120km/hで走らざるを得ないのですが、困ったのはクルーズコントロール(速度を一定に保つ機能)が利かなかったことです。

 120km/hで継続的に走らせようとして初めて知ったのですが、古い車(と行っても6年目)で120km/h走行というのは予定していなかったらしく、120km/hに設定しようとすると数字が112km/hまで落ちてきてしまうのです。おまけにハンドル操作サポート(同一レーンをずっと走ってくれる機能)も連動していて、時速112km/hを越えると切れてしまいます。

 旅行の帰路は、ひとりで600km以上走って帰宅したと自慢たらしく言いましたが、実は前の車に合わせて速度を変えてくれる“追従型クルーズコントロール”と“ハンドル操作サポート”に頼り切っての運転で、実際には前を向いて異常がないか確認していただけなのです(理屈上は心筋梗塞か何かで死んでもきちんと走り続けるので)。

 花巻南ー盛岡南間、全行程で最もストレスフルな27kmで、こんなのはやめてもらいたいと本気で思いました(「新車を買え!」か?)。
 
 

【Uターンを2回】

 車が古いといえばナビゲーションシステムの情報が古いのにも困りました。結婚式の前日泊に予定していたホテルに、ナビが表示した地下駐車場がなかったのです。地下へ向かう入り口はあったのですが業務用で一般車は入れません。
 何か見落としたのかもしれないと思っていったん離れたところから再突入を図ったのですがやはりだめ。市街地で簡単に車が止められないのでかなり離れた場所まで行ってそこからホテルに電話をかけると、
「ああ、地下駐車場は現在使われてはおりません。ホテルに隣接する平地の駐車場がありますので、そちらをお使いください」
「どのように行ったらいいんでしょう?」
「線路を越える緩やかな坂を下ってきませんでしたか?」
「ああ、下りました」
「もう一度そこまで戻って、坂を下り切ったところの信号を右折して下さい。そしてそのまま行くのではなく、右折の形でUターンします」
「右折のままUターン? ハイ」
「そのまま進んで最初の信号でさっきと同じように右折でUターンします」
「あの、すみません。Uターンして行った先でUターンしたらまた元に戻っちゃいません?」
「大丈夫です。戻りません」
 正直を言うと最初の「右折でUターン」のあたりからすでにチンプンカンプンだったのですが、UターンにUターンを重ねても「大丈夫。戻りません」と断言されたのでは話になりません。面倒くさいので、
「わかりました、やってみます」と言って電話を切りました。

 しかし実際に「緩やかな坂を下ったところの信号でUターン」をしてみるとそのアホさ加減がわかります。それに、
《信号機のある交差点内でのUターンって、基本的に交通違反じゃないのか?》
 UターンにUターンを重ねれば元に戻ってしまうのも当たり前です。

 そこでホテルマンの言うことを無視して、もう一度ナビの言いたかったことを考えながら何回か挑戦しているうちにようやくわかったのです。線路を越える高架橋の坂を降りたら、右に回り込むようにしてその高架橋の下をくぐるのです。

 ホテルマンはせめてこう言うべきでした。
「駐車場の入り口はホテルの東側にありますが、前の道路が北向きの一方通行なので坂を下りてそのまま入ることができません。お車は北に向かって坂を下りますよね。そうしたら坂の下の信号から右回りにぐるっと回り込む感じで高架橋の下をくぐり、ホテルの東側に寄せてください。駐車場の入り口はすぐに見えるはずです」
 
 

【寝室、奇抜】

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 そんなこんなで20分以上もかけてようやく到着し、部屋に入ることができました。ところがなんとそこはダブルベッド! 招待してくれた新郎新婦の用意してくれた部屋ですが、そんなに仲の良い夫婦だと思われていたのでしょうか。
 これでは休まりません。

 翌朝目を覚ますと、妻は二段重ねの枕のうち一つを私との間に立て、顔が近づかないようにしていました。そんなことをしなくても絶対に越境なんかしないのに、ね。
 
 

「指の間から零れ落ちていく命」~被災地をめぐる旅⑦ 

 2011年3月11日
 大川小学校職員はとんでもないミスによって
 74人の尊い命をなくしてしまった
 しかし彼らだけが愚かだったわけでも 無知だったわけでもない
 それはわずかな運命の差でしかなかった

という話。

f:id:kite-cafe:20191008064826j:plain写真ACからの写真)

【他の学校の実際】

 大川小学校から直線距離で2kmほどにある尾勝小学校では津波警報が出ると校舎2階に避難することを考え、しかしそこはガラスが散乱していたので使えず、次に体育館を考えたものの卒業式準備でワックスを塗ったばかりでここも入れない。そこでしかたなく学校わきの高台の神社に避難して事なきを得ています。結果的には校舎2階に避難しても体育館に移っても、助からない命でした。地域の保護者からの情報もあったということです。(宮城県職員組合編「東日本大震災 教職員が語る子ども・いのち・未来」)

 あるいは牡鹿半島の鮫浦湾に面した谷川小学校では、地震直後、子どもたちを校庭に避難させ、職員は体育館に避難所開設の準備を始めました。そこへ地域をよく知る消防団員がきて、津波が来るから今すぐ高台へ上がれと強く促します。
 防潮堤にいた仲間からの合図で津波が目の前まで迫っていることを知った消防団員は大声で叫び、子どもたちは一目散に学校向かいの県道に駆け上ってそこから見守りますが、わずか数分後、津波は学校に襲いかかって引き波は体育館を持ち去ってしまいました。

 さらに湾の底が見えるような大きな引き波にもっと大きな津波が来ることを予見した消防団員はもう一段高い位置まで子ども誘導し、ここでも子どもたちは命を救われます。次に来た津波は、先ほどまでいた場所から自家用車を持ち去ってしまったからです。

 やがて雪が降ってきます。そのままでは夜は過ごせません。すると消防団員は谷川小学校の裏手の山の祠で、昔、津波から難を逃れた人がいたという言い伝えを思い出し、そこまで移動することを提案します。

 祠に行くにはいったん小学校の横まで降りなくてはなりません。教職員の中には心配する声もありましたが、消防団員の説得で津波の合間を縫って強行突破しました。おかげで子どもたちは祠の中で温かく一夜を過ごすことができました。
 こうして谷川小学校の児童・教職員は全員、無事生還できたのです。
(「あの時、わたしは」谷川小- NHK総合1・仙台)

 谷川小学校の子どもたちは地元の人たちの助言によって校庭を離れ、大川小学校の子どもたちは地元の人の言葉に縛られて山に登ることができなかった。一人も死者・行方不明者も出さなかった学校と74人も死なせてしまった学校の差は、その程度でした。

 

【ほんのわずかの違いが生み出す大きな差】

 地元の人といえば、気仙沼向洋高校の生徒たちは地元の人たちが動かないのを見ても止まることなく走り続けました。それは結果的に正しい行動だったのですが、もし津波がもっと早い時間に到達していたら、住民と一緒に巻き込まれていたのかもしれません。そうなれば堅牢な学校の4階屋上に逃げなかった判断は、厳しく非難されたことでしょう。向洋高校の屋上は津波に洗われなかったからです。

 また、“走って逃げた”といえば、伝説となった「釜石の奇跡」でも、釜石東中学校の生徒たちはかなり長い距離を走っています。なだらかな上り坂を、しかもかなりの部分は川沿いです。

 伝説によると、中学生は全く大人の指示を受けることなく自分たちで判断して、3度にわたって避難場所を変更しつつ、ついに高台に難を逃れたということになっていますが、そんなことはありません。それぞれの場所で地元の人たちの助言に従って校長が判断して決めたのです。
「津波から生き延びる 釜石東中学校の報告」他。ただし校長は当日不在で、指示・判断したのは副校長だったという話もある)。
 それも助かったからいいようなものの、津波がもっと早くに到達して川を遡っていたら生徒は大川小学校の子どもたちと同じ目にあっていたはずです。のちに専門家のひとりは中学校の裏山にまっすぐ上るべきだったと言っています。

 釜石東中学校の生徒は裏山に登りませんでした。大川小学校の子どもたちも裏山に登りませんでした。

 

【「釜石の奇跡」の功罪】

 「釜石の奇跡」には、2004年から釜石市の防災・危機管理アドバイザーとして津波避難を指導してきた片田敏孝(当時群馬大学)教授の、自画自賛的な誇張があると私は思っています。
 「生存率99.8%」にしても、その日、病気などのために在宅で被災した小中学生のうち、津波被害で亡くなった子どもは5名でこれが99.8%の根拠です(当時の釜石市の全児童生徒数は2936名)が、地理的にも近く地形も似ている気仙沼市も小中学生5688人中亡くなったのは11名で、これも「生存率99.8%」です。
 “奇跡”は釜石だけで起こっていたわけではないのです。

 もちろん石巻市東松島市名取市といった場所では被害者も多く、子どもを引き取った保護者が車で危険地域へ向かったり、石巻の日和幼稚園では園バスを海岸に向けて走らせたりと、市町村としての津波対策や防災意識不備があったことも事実です。しかし同時に、街の規模や地形、津波の到達時間といった要素も考えておかなくてはなりません。
 釜石に比べると石巻津波の到達時間が5分遅く、その分、保護者は児童生徒を引き取る余裕がありました。また基本的に海沿いの街から山の手の住宅街に避難する釜石や気仙沼に対し、石巻や名取には学校より海側に住宅のある例も少なくなかったのです。
 その石巻市でさえ、小中学生の生存率は大川小学校の74名を計算に含めても98.6%です。

 津波が夜間だったり休日だったりした場合を考えると、いったいどれほどの子どもが犠牲になったのか――。校舎の堅牢さといった部分も含めて、いかに学校が優れていたかは容易の想像できます。

 「釜石の奇跡」では児童生徒の自主性を強調するあまり、事実を曲げて、あたかも避難に大人が一切かかわらなかったような表現が一般化しました。その結果、「釜石では子供たちが先生の指示を聞かずに動いたために助かって、大川小学校では指示に従ったために助からなかった」とか「大川小学校では子どもが教師に殺されてしまった」とか言った極端な見方も横行しました。

 大川小学校を除けば学校管理下で死者・行方不明者を出した学校はひとつもなかったという事実は忘れられ、学校は辱められ、大川小学校職員の遺族は苦しめられました。
 まさかそんなことはないと思いながら、私もあの時期、親から「災害のときは先生の言う通りにしないで、自分で判断して行動しなさい」と教えられた子どもたちが、いざというときにそれぞれ勝手に走り出す悪夢を想いました。

 

【指の間から零れ落ちていく命】

 大川小学校の遺族の中に夫婦で中学校の教員をやっていた人がいました。その人はこんなふうに言っています。
「やっぱりね、生き残ったA先生のお気持ちをどうしても考えるわけですよ。それとね、流されてしまった先生たちの無念さも感じます。だって、子どもを救えなかったことは、先生たちにとっては非常につらいことだったはず。子どもに対して、本当に申し訳ないと思っていると思う。私は失敗してしまったと、たぶん、あの波にのまれた瞬間、あるいはあの世でも、そう思っていると思うんですよ」(「あのとき、大川小学校で何が起きたのか」)
 私もそう思います。

 人間は命に係わる瞬間、本能的にわが身を守る行動を取るといいます。例えば車で正面衝突しそうなとき、助手席の家族を差し出すような形になってもハンドルを切ってしまうと。

 大川小学校の職員も、津波に飲み込まれる瞬間は思わず回避行動を取ったかもしれません。しかしその目と頭と心は、自分のことでも家族のことでもなく、目の前で自らの手の指の間から、漏れ落ちていく子どもの命を見ていたに違いありません。
 無念と言うでもなく、切ないと言うでもなく、申し訳ないと言うでもない――決して言葉では表すことのできない絶望――。

 もしもあの世でも、子どもたちに対して本当に申し訳ないと思い続け、自分は失敗してしまったと考えなければならないとしたら、私はあの世なんていりません。

                 (「被災地を巡る旅」終わり)

(参考文献)
「あのとき、大川小学校で何が起きたのか」

「学校を災害が襲うとき: 教師たちの3.11」

「東日本大震災 教職員が語る子ども・いのち・未来」

 
 

「完璧な避難・心の準備」~被災地をめぐる旅⑥


 突然の地震津波であったにもかかわらず
 十分な計画と準備のできていた学校がいくつかある
 彼らはどのようにして準備を重ね
 避難することができたのだろうか

というお話。

f:id:kite-cafe:20191007081705j:plain仙台市立荒浜小学校屋上から海を望む)

 

 石巻市立門脇小学校から】

 一日目の終わりは石巻市内のビジネスホテルに泊まり、二日目は石巻市立門脇小学校を見学して、それから仙台市立荒浜小学校に回って計画は終わり。疲労を考えながらあとは気ままに、今日自宅に戻ってもよし、明日以降帰るのもよしと、そんなふうに考えていたのです。ところが計画は最初から躓きます。
 お目当ての門脇小学校は震災遺構として来年の公開に向けて工事中だったのです。
  

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 校舎全体に幕がかかっていて中を窺い知ることはできません。
 手前に墓地があるのは何か象徴的ですが、これは以前からあったものなのでしょう。墓石は妙に新しい一群と古いものがあり、がれきの中から回収できたものとそうでないものの違いかもしれません。あるいは一部は、津波の被害者が入る、そもそもまったく新しい墓なのかもしれません

 防災という意味でのこの学校の特徴は、津波警報の際の避難所に指定されていなかったということです。「津波に対しては危険」というお墨付きだったのです。

 金曜日にお話した“市教委に最も早く報告にきて帰れなくなった女性校長”はこの学校の人で、震災の年の3月末に定年退職が予定されていました。過去の宮城沖地震(近いところから2005年、1978年など)に記憶があり、地震津波に対する感性の強い人です。

 3月11日も過去の地震と対比してこれはただごとではないと察知し、津波警報が出ると迷わず裏手の日和山に児童を避難させる決心をします。300名あまり児童はこうして津波を生き延びました(ただし避難の前に一部、迎えに来た保護者に子どもを渡してしまったことは、のちのち深く後悔することになりました)。

 門脇小学校を襲った津波は一階部分を半分ほど沈めただけでしたが、校庭に集まっていた自家用車が大量に流入し、それに引火したために校舎全体が焼け落ちてしまいます。周辺の住宅地も以前の姿に戻されることはなく、門脇小学校も閉校となりました。
 現在は学校を中心として復興祈念公園を整備しており、校舎も震災遺構として来年には公開されるようです。

 どうやら私は中途半端でした。陸前高田では道の駅「高田松原」の8年ぶりの再開当日、しかも時間前に行ってしまいましたし、門脇小学校も、訪れるならもっと早く、あるいはもう少し遅く来るべきでした。

 次の目標は石巻から1時間ほどかかる「震災遺構・仙台市立荒浜小学校」。開館は10時です。余った時間を市内で少しつぶして、それから仙台に向かいました。

 

 仙台市立荒浜小学校へ】

 仙台市立荒浜小学校は「釜石の奇跡」と並び称されるほど完璧な準備ができていたことでつとに有名になった学校です。


 砂浜海岸までわずか500m。日常的に海の見える学校で、気仙沼向洋高校と同じく「危険だから安全」だった学校です。ただ高校と違って小学校は地域との関係が濃密で、避難計画には最初から住民が織り込まれていました。

 避難計画の見直しは大震災の前年のチリ沖津波のときに行われました。そこで住民から出された要望、
① 正規の避難所である七郷小学校とは4kmほど離れており、移動するのが困難。
② 特に高齢者は一時避難所である荒浜小学校に避難するのがやっとである。
③ また高齢者、特に足の不自由な者が4階まで上がるのは難しい。
④ 学校前の市道は渋滞を起こし、スムースに通行できない。
はすべて考慮され、荒浜小学校は正規の避難所に格上げされて災害備蓄も1.5倍、800人の住民が最低3日間は生活できるようになったのです。いざ津波となったら荒浜小に籠城する――そういう覚悟で毛布や扇風機なども体育館ではなく、校舎3階に蓄えられました。

 3月11日の津波は高さ10m、校舎2階の半分ほどにもなりました。しかしすべて計画通り、「住民の割り振りは教室に町会ごと」といった配慮もできていたので、その後の“籠城生活”は非常にうまくいきました。荒浜小学校に避難した320名はヘリコプターで釣り上げるなどして、翌朝まで全員が被災地を後にしています。
 ちなみに東日本大震災は教職員が在校中に起こりましたが、これが深夜であっても、地域の担当者が学校を開き、住民を割り振る手はずができていたようです。

 震災遺構としての荒浜小学校には、ほかの遺構にはない極めて特徴的な展示がありました。それは小学校の開校まで遡って振り返るものです。
 ある意味で私のような震災の様相を見に来た者には必要ない展示ですが、地域の人々にとっては切実です。津波によって町は失われ、荒浜小学校も閉校となったからです。地域も学校も二度と戻ってこない中で、校舎は記念碑的な意味合いも持っているのです。地域といかに密接だったかがうかがえる事実でもあります。
 
 門脇小学校や荒浜小学校のように完璧な避難のできた学校があったことを思うと、大川小学校の事件はあまりにも残酷で愚かなようにも見えます。しかし一部の例を除けば、他は決して万全の態勢で津波から避難できたわけではなかったのです。

                        (次回最終)

 

 

「大川小学校の校長に責任がある」~被災地をめぐる旅⑤ 

 高台に避難せず校庭に留まった空白の50分間
 教頭はさかんに校長に連絡を取ろうとしていた
 そのとき校長はどういう対応をしたのか――
 今となってはわからないが
 いずれにしろ 校長に責任がある

というお話。

f:id:kite-cafe:20191004073901j:plain石巻市立大川小学校跡地《パノラマ画像3》)

 

【校長と教頭の関係】

 教育行政のありかたや教育委員会・学校の雰囲気は各地方公共団体ごと、かなり違います。しかし根幹部分が決定的に違うということもないでしょう。

 例えば教員の“頭(かしら)”である教頭は学校と教職員のすべてを統べる立場ですが、漢字で「頭」と書くにもかかわらず、学校の“頭(あたま)”であってはいけません。“頭(あたまは)”は校長であって学校に関わるすべて決定権は校長にあり、教頭はその手足なのです。

 “頭(あたま)”を差し置いて“手足”が独自に判断したり行動を起こしたりすれば、“頭(あたま)”は当然、怒ります。“手足”は言われた通り動いていればいいのです。
 しかし教頭は無人格のようなものですから、責任を問われることも、難しい判断を迫られることもありません。そこで利害が一致します。

 教頭は校長に無条件に従う代わりに、困ったときは何でも判断してもらえばいいのです。間違ったら責任は校長が取ってくれます。
 ただし校長は知らないことにまで責任は取りたくありませんから、常に教頭に報告を求めます。教頭は年中報告ばかりしています。
 それが校長と教頭の基本的な関係です。
 
 

【教頭はただ何もせずそこにいたわけではない】

 2011年3月11日の大川小学校で、校舎からの避難が終わって人員確認が済んだあと、教頭はただ何もせず時を過ごしていたわけではありません。必ず校長と連絡を取ろうとしたはずです。こんな大事件に際して、報告を怠ってあとで責任を問われたらかないません。

 いや、その前に校長の方から問い合わせがあった可能性もあります。普通の校長だったら大地震のあとでまず心配するのは学校のことです。家族のことも心配でしょうが、一刻も早く状況を把握して市教委に報告しなければ、こちらも責任を問われます。

 実際に11日の夕方に、石巻市教育委員会のある市役所に真っ先に駆けつけたのは、市庁舎にほど近い門脇小学校の女性校長でした。校長は学校裏の日和山公園に児童を避難させるとすぐに教育委員会に駆けつけ、おかげで急速に冠水し始めた庁舎から出られなくなってしまいます。津波より早く報告に来たわけです。

 二日後の13日には教委から最も遠い学校のひとつである船越小学校からも、校長に派遣された教師が報告に来ます。通常の経路で35㎞もある道のりを、徒歩とヒッチハイクでやってきたのです。市教委への報告というのはそれくらい重いのです。

 ですから地震直後の50分間に、大川小学校の校長と教頭が連絡を取り合ったことは間違いありません。少なくともどちらか一方が連絡を取ろうとしたのは確実です。二人とも無能無策ということはさすがにないでしょう。

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 では実際に二人は話し合えたのか――。

 私はできたと思います。地震から津波が来るまでの時間はまだ携帯電話も繋がり易く、その時間帯のやりとりで釜谷地区を脱出した人もいたからです。
 その場合、児童・教職員が山に向かわずその場に留まったのは、校長の指示ということになります。教頭が指示や承認を仰がないわけはないからです。

 のちに保護者から「もしそのとき現場にいたとしたら、どうした?」と問われた校長は、「私だったら山に避難させた」と答えていますが、そんなことはないでしょう。もしそうなら電話を通して指示できる立場にいたのですから。

 あるいは教頭は、連絡しようとしたのに校長に繋がらなかったという可能性もないわけではありません。実際に被災直後、教務主任が連絡を取ろうとしたときは繋がりませんでした(回線が不通だったのか、校長が出なかったのかはわかていません)。
 その場合、空白の50分間の大部分は校長からの連絡待ちだったことになります。もちろん何回も電話をかけ、メールも打ったはずです。しかし返事はなかった――そうなると動きが取れなくなります。

 最後の最後に三角地帯へ向かったのはその時点で校長の許可が出たか、連絡をあきらめた教頭が津波の恐怖に耐えかねて泣く泣く自己判断をしかたのどちらかです。

 いずれの場合も校長に大きな責任のある話ですが、空白の50分間に校長は何をしていたのか、それについては20㎞以上離れた自宅にいたということしかわかっていません。
 
 

【if】

 もし私があの日あの時の大川小学校の校長だったとしたら――そう考えることも無意味ではないでしょう。私でもおそらく山に避難することはしなかったと思うからです。

 津波の高さが6m~7m、それが10mと報道されるようになっても、地域の人々の大部分は逃げようしませんでした。津波はここまで来ないのかもしれません。大川小学校が海抜1mしかないなんて知りませんし、津波というものがどういうものなのかもわかっていません。それに震度5、震度6といった余震が続く中で山に登ることも安全とは思えません。昨年の北海道地震の山崩れを知った今はなおさらです。

 しかしずっとその場に留まった可能性も多くはありません。「危機管理の『さ・し・す・せ・そ』の第一は「最悪のことを考えて」です。

kite-cafe.hatenablog.com ですから私だったら早い段階で、「三角地帯」へ移動することを考えたでしょう。もちろんそこも安全ではなく、結果論から言えばむしろ一人も助からないような場所でしたが。

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【天災を人災に変えた人】

 結論的に言うと、やはり大川小学校の事件は天災でした。
 「たられば」で言えば、教職員や地域の人々に津波の恐ろしさを周知させ、山の地質を調べて予め避難路を設けておけばよかったのはもちろんですが、2011年3月のあの段階で取りうる策はせいぜいが「三角地帯」程度です。被害の大きさから考えれば「運がなかった」では済まされませんが、それでも限界は見えていました。

 ただしこの天災を人災にしてしまったことには、当時の校長に全面的な非があります。
 これについては事件を扱ったルポルタージュ「あのとき、大川小学校で何が起きたのか」の感想として別のところ(毒書収監「あのとき、大川小学校で何が起きたのか」)に書きましたから改めて申し上げませんが、歴史に残る悲劇の日に、そんな校長しか冠していなかったことも大川小学校の取り返しのつかない不運だったのかもしれません。

 校長があのような人でなければ、遺族ももっと心安く、運命を受け入れることができたはずですから。

                    (この稿、続く)

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「誰も書かなかった『あのとき大川小学校でほんとうに起こったこと』」~被災地をめぐる旅④

 なぜあの日 大川小学校の職員はぎりぎりまで子どもを避難させなかったのか
 なぜあの時 目の前の山に登ることを考えなかったのか
 なぜ 大した高台でもない「三角地帯」をめざしたのか
 なぜ 県道を通らず 細い裏道を通って避難しようとしたのか
――私は知っている

というお話。

f:id:kite-cafe:20191003074551j:plain石巻市立大川小学校跡地《パノラマ画像2》)

 

津波はほんとうに来るのか】

 なぜあの日、大川小学校の教職員たちは高台に避難せず50分間にわたって校庭に留まったのか、なぜ津波到達の1分前になって避難を始めたのか、なぜ数十秒で登れる裏山ではなく橋のたもとの三角地帯を選択したのか、なぜ正面の県道を通らず民家の裏通りから三角地帯に向かおうとしたのか・・・。


 のっぺりとした草地の、おそらくかつては校庭だったと思われる位置に立ち、目の前に100人近くの子どもと教職員の姿を思い浮かべ、さらに地域から集まってきた多くの地域住民、子どもを迎えに来た保護者、就学前の子どもたちのことを想像した上で、当時の教頭の気持ちになって静かに考えると見えてくるものがたくさんあります。
 そのひとつは“津波はほんとうに来るのだろうか”という思いです。

 ラジオでは「高さ6m~7mの津波が迫っているから海岸付近の人は高台に避難しろ」とさかんに呼びかけています。しかしここは海岸から遠く離れた内陸(実際には4km)です。学校の防災マニュアルを見ても「津波の際は高台に避難」とあるだけで具体的な場所の指定はありません。

 大きな津波が来るという情報に職員の一部から「山に逃げたらどうでしょう」という提案がなされます。しかしそれに対して「山は地滑りや倒木の危険があるからここに留まるべきだ」と主張する職員も出てきます。
 どちらが科学的に正しいのか、それも判断できません。
 ただしわずかな間に震度5弱、震度5弱、震度5弱・・・(計6回)、震度6と繰り返し余震のあるなかで、地滑りや倒木はなんとなく理解できるような気もします。

 地域の人たちはと見ると、皆、案外、落ち着いた様子です。
 地域の避難場所に指定されていた体育館では余震のたびに照明ランプが大きく揺れ、しばらく住民を誘導できそうにありません。庭に空の一斗缶が二個持ち出され、たき火の準備も始まりました。それを横目に、避難してきた人たちはあちこちでのんびりと話をしています。
 児童を迎えに来た保護者の中には、子どもから「もう少しみんなと遊んでいる」と言われて帰ってしまった人もいます。
 地域を良く知る区長に訊いても「津波はここまで来ないから大丈夫」と太鼓判を押します。
 
 

津波の来ない場所】

 地域の人々の落ち着きや学校の防災マニュアルに津波の避難先がないことには理由がありました。
 大川小学校のある釜谷地区は市のハザードマップでも津波の浸水地域されていなかったのです。1933年の昭和三陸津波でさえ、到達先はそこから3kmも下流。チリ津波は防波堤を越えることができませんでした。
 誰も津波の到達を予想しておらず、防災マニュアルの「津波の際は高台に避難」も、単に市のひな型を書き写しただけのものでした(必要な学校はその部分を具体的な場所に書き換えた)。

 どんなに大きな地震があろうとも津波はここまで来ない――それが釜谷の常識で、カーラジオなどで情報を確認し、一刻も早く高台に逃れようとした人はほとんどいませんでした。ごくわずか、本気で逃げ出そうとした人も、集落の外れで逆に地区内に戻るよう説得されたくらいです。

 東日本大震災津波のために、当時109世帯393人の集落だった釜谷地区から197人の死者・行方不明者が出てしまいます。人口のおよそ半分が一瞬で失われたことになります。日中の津波でしたから地区外に働きに出ていた人を考えると、そのとき釜谷地区にいた人の9割以上が亡くなったと思われます。

 地域にそれほどまでに津波に対する危機意識がなかった以上、学校の意識の低さだけを非難することは難しいのかもしれません。

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【教頭の逡巡】

 しかしそれでも教頭は迷っていました。ラジオが津波の高さ(6m~7m)を10mに引き上げるとさすがに落ち着いていられません。
 教員が「山へ行ったらどうでしょう」と提案するのを押さえるのは簡単です。ダメだと言えば大人のことですからそこに何らかの事情があると察してくれます。しかし「山さ上がっぺ」と叫ぶ子どもたちを無視するのはつらい。より安全な策を取ろうという正論を潰すのは忍びない。
 どうしたらいいのか――。

 後に出された石巻市の報告書には、
「教頭先生は『山に上らせてくれ』と言ったが、釜谷区長さんは『ここまで来るはずがないから、三角地帯に行こう』といって、けんかみたいにもめていた」
という記述があるようです。

 校庭やそれに隣接する交流会館にはかなりの数の地域住民が集まっていましたから、児童が避難し始めたとなれば地域住民も動かざるをえない、区長はそんなふうに考えたのかもしれません。お年寄りが中心ですからとてもではありませんが山へは向かわせられません。そこで教頭も妥協します。

 そのころ釜谷地区の海寄りの外れを走っていた市の広報車は恐ろしいものを見ます。堤防すれすれまで水かさを増した北上川を、漁船が上流へと凄まじい勢いで流されていく姿です。車は津波が目の前まで迫っていることを広報しながら、全速力で釜谷地区を駆け抜けます。

 別の、川を見にきた男性が堤防で「津波が来るぞ!」と叫びます(この人は後に遺体で発見されました)。その声を聞いたのか実際に津波を見たのか分かりませんが、避難経路を確認に行った教頭は慌てて校庭に戻り、「もう津波がいているから、急いで!」と叫びながら、県道ではなく、裏道を行くよう指示します。川から少しでも離れた避難路を選択したのです。しかし教師たちにとっては通ったことのある道ではなく、実際には袋小路で脱出は不可能でした。そこに津波が襲いかかります。

 それが大川小学校跡地で私が感じた、「あの日、あの時、大川小学校の教頭の心の中に起こったことと見たこと」です。
 大筋ではこれまでに語られてきたことと大差ありません。

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【最後の疑問と答え】

 しかしそれにしても50分はかかり過ぎだろう――最後に残った疑問がそれです。私が行った時にそばで「アホンダラ!」と叫んでいたお祖父さんの怒りもそこにあります。大川小学校に関する多くの資料は同じ疑問を残したままです。
 けれど私は知っています。

 地震発生から50分間。そのうち最初の5分~10分は児童の避難、人員把握、状況確認に費やしていたとして、残りの40分~45分間、教頭は何をしていたのか。

 実は教頭は、ずっと校長と連絡を取ることに努力していたのです。

                           (この稿、続く)
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「旅の目的、繋がらない大川小学校の記憶の断片」~被災地をめぐる旅③ 

 石巻市立大川小学校跡地にきて ようやく旅の目的に気づいた
 私はここに来たかったのだ ここにきてあの日を感じたかった
 同じ教師として あの日の大川小学校職員がどう誤ったのか
 それを感じ取りたかった

というお話。f:id:kite-cafe:20191002071542j:plain石巻市立大川小学校跡地《パノラマ画像》)

【旅の目的】

 ナビに従ってとんでもない山道を長く走らされた後、平地に出て5分ほど走ってなだらかな坂を上り、北上川の堤防に入るとテレビで見慣れた萌黄色の鉄骨が見えました。

 新北上大橋です。石巻市立大川小学校跡地は橋を渡った左下にあるはずです。

 震災以来すでに8年。三連休の中日にも関わらず駐車場にある車は4台だけ。大川小学校の周囲をめぐる人もわずか数人といった感じです。
 それでも絶えず人は訪れるみたいで、正面の慰霊碑には生花が置かれ、線香の煙がたなびいています。

 私はまず、子どもたちが流されただろう場所に行って、山の方を見ました。そして急に思い出したのです。私はここに来たかったのだと。
 新幹線で往復すれば楽な結婚式参加を、わざわざ自家用車に替え、往復1500kmも走る気になったのは大川小学校に来るためだったのです。
 

【大川小学校の特異性と疑念】

 東日本大震災の中でも大川小学校の被災は格別です。死者行方不明84名(児童74名、教職員10名)というだけでも慄然とさせられますが、震災の被害にあった東北3県で、学校管理下で亡くなった子どもはここにしかいないからです。

 大川小学校に続いて死者行方不明の多い石巻市立釜小学校の犠牲者は25名です。しかしこれは大半が引き取りに来た保護者の車で渋滞に遭い、そこに津波が襲いかかって亡くなったものです。
 大川小学校だけが唯一学校の管理下で、教師の責任で子どもを死なせてしまった場所なのです。
 そこで何が起こっていたのか。

 小学校の跡地には譜面台に似た説明書きがいくつもあって、一部にはこんなふうに書いてありました。
 校庭で待機中、危険を感じて「山に登ろう」と言った児童もいた。しかし教職員たちは避難方針を決めかねていた。そのため地震発生後50分間、児童たちは寒い中、校庭に放置された。ようやく避難を開始したのは津波がくるわずか1分前だった。(大意)

 私より少し先に来ていた家族の中で、お祖父ちゃんらしき人がこれを熱心に眺め、読み終わると、
「こんなところで50分間も待たせたなんて! ダメに決まってるダロ!アホンダラ!」
とか言っています。
 家族がだれも相手にしないのでさらにブツブツ言っては何度か「アホンダラ!」を繰り返しているのです。

 教員の無為無策を非難する声は当時からありました。
 あれほどの津波を見た後では、広報車が呼びかけていたにもかかわらず、そして手元のラジオが津波の高さは6~7m、10mと叫んでいるのに、海抜1mしかない校庭で50分間も過ごしていたことは、ほんとうに“アホンダラ“としか言いようのない愚行に思えるのでしょう。

 しかし私は教員というものを信じているのです。愚かな教師のひとりや二人はいるにしても、組織としての教師が“アホンダラ”であるはずはありません。

 情報を持ちながら避難せず無為に時を過ごしたことには何らかの意味がある、教師たちが動かなかったことには理由がある、それを現地で感じ取りたかったのです。

【繋がらない記憶の断片】

 昨日お話した気仙沼向洋高校とは違って、小学校は6歳から12歳の子どもが徒歩で通うことを前提とした学校です。したがって集落から遠く離れたところに建てたりはしません。

 下の写真にある通り、今の大川小学校の周辺は住宅の土台さえない広野原ですが、津波以前には109世帯の街がありました。合併前の大川村役場跡もあれば法制局や登記所、学校のすぐ近くには郵便局や駐在所、診療所もありました。
 現在の大川小学校は、崩れた校舎とともに周囲に何もないことで津波の威力を伝える遺構であるとも言えるのです。

f:id:kite-cafe:20191002070917j:plain (下はありし日の小学校周辺《鎌谷地区》の航空写真)

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 写真正面の小さな山の向こうに海はあります。また学校の周辺は住宅で囲まれていますから、川に何らかの異変があっても気づくことはできません。

 当日、校長は中学生のお嬢さんの卒業式で学校を休んでおり、地震の際の対応は教頭の責任においてなされたはずです。“はず”というのは校庭で無為に過ごした50分間について、詳細に語る人がいないからです。

 当時現場にいて奇跡的に生き残ったのは4人の児童と一人の教師。
 子どもたちは普通、大人のやり取りにほとんど関心を持ちせんから断片的なやり取りしか覚えていません。また子どもを迎えに来た保護者の一部が見聞きした事実もありますが、これも断片的です。
 一番頼りになるのは最初から最後まで現場にいて生き残ったただ一人の教師ですが、この人はおそらく精神的な問題から、医者に止められて今日まできちんとした証言をしていません。

 したがって断片的な記憶をつぎはぎするしかないのですが、
「児童が『山さ、登っぺ』と言ったにも関わらず教師は相手にしなかった」とか、
「教員どうしでも高台へ避難するか学校に残るか意見が割れていた」とか、
 あるいは、
「教頭はせめて大橋のたもとまで移動したいと言ったにもかかわらず、現場にいた鎌谷区長が『ここまで津波が来ることはないから行かないでいい』と言った」とか、
 あるいは逆に
「区長の方が『橋のたもとの三角地帯』へ行こうと言っていた」
とかいった話が残っていてどうにも繋がっていきません。

 結論的に言うと、津波は海側から来たのではなく、凄まじい勢いで北上川を逆走し、大橋で勢いを失って堤防から溢れ、Uターンする形で「三角地帯」から鎌谷地区に襲いかかりましたから、「三角地帯」へいっても同じだったのかもしれません。

 もちろん早めにそこに行きさえすれば橋のたもとですから逆流する津波の様子は遠くから見え、楽なことではありませんが、そこから一人でも二人でも山を這い上がらせれてもう少し多くを助けることができたという考えもあります。

 しかしそれとて結果論です。
(この稿、続く)

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