生成AIが学校教育を変えると言われて久しい。
しかし通知票の所見から宿題の作文まで、
現場はあまり変わっていないのではないか。
ただし評価の観点は、次第に変わっていくはずだ。
(写真:フォトAC)
- 【教育現場における生成AI】
- 【通知票の所見欄をAIに書かせることの是非】
- 【子どもがAIで作文を書いてきても】
- 【揺らぎ・逸脱・飛躍を評価する】
- 【しかし子どもはたぶん宿題にAIを使わない】
- 【それでもAIを使い続けるひと】
【教育現場における生成AI】
ChatGPTが公開されて早いもので3年半になります。
当初から驚き・熱狂・不安・警戒といったあらゆる感情を持って迎えられた世界初の生成AIでしたが、真っ先に懸念されたのは「人間から技能と雇用を奪うのではないか」という問題でした。後者は分かりやすいですが、前者は、「安易にAIに頼ることで、若い世代が能力を伸ばす機会を奪われるのではないか」と恐れられた話です。
企業では例えば、若い社員にプログラミングを依頼すると、AIに丸投げして結果だけを持ち帰ってくる。しかしそうなると、自ら考えたわけではないのでなぜそういうプログラムになるのか説明できない。AIのミスにも気づかない。もしそんな状況が数年も続いたら、学生時代に培った技術・能力さえ失われかねないということです。
生成AIのそうした側面を、最も具体的・先鋭的に問題化したのは、言うまでもなく学校現場でした。若い教師の成長と、もちろん子ども自身の成長の、両方に悪影響があるのではないかと懸念され、それぞれに具体的で象徴的な議論が行われたのです。
教師については「通知票の所見欄を記入するのに生成AIを使うことの是非」、児童・生徒・学生については「宿題(課題)を生成AIにやらせる者たちが出てくるのではないかという不安」が問題視されました。
【通知票の所見欄をAIに書かせることの是非】
私も、最初は「通知票の所見欄をAIに書かせる」ということの具体的な意味が分からなかったので不安だったのですが、ただ「総合所見を書いてくれ」と言って書いてもらった所見は、かなり使いづらそうなものでしたから、少し安心しました。
例えば架空の児童・青山拓也くんについて、AIはこんな文章の提案をしてきます。
拓也くんは、クラスのムードメーカーとして、常に明るい笑顔で周りを和ませています。特に体育の授業では、運動神経が抜群で、クラス全体をリードする力があります。学習面でも、特に理科に興味を持ち、実験ではリーダーシップを発揮しています。
こうなると拓也くんにそっくりな子をクラスから探して名前だけ変えるか、比較的似た子を探してきて、「理科」を「算数」に、「実験」をなにか別の算数の事例に置き換えて提示するしかありません。実は私も若いころ、これに似たことをやった経験があって、『通知票総合所見文例集500』みたいな本を買ってそこから適当な文を探し、それを現実の子どもに当てはめようとしたのですが、これがメチャクチャ大変な作業でした。*1
結局、そんな苦労をするくらいなら、日ごろから理科なら理科、算数なら算数の細かな記録を取っておいて、それを生成AIに投げ込み、「このデータを200字程度にまとめてくれ」と依頼する方がはるかに楽なのです。
さらに言うと、毎日、記録をつけるようなきちんとしたことのできない私みたいな人間には、記憶とわずかな記録を頼りに、コンピュータAIに頼らずに文章を書くのが一番楽です。なぜなら何でも覚えて決して忘れないコンピュータよりも、印象的なことだけを選択的に覚えている私の勘ピュータの方が、はるかに的確にその子を把握できるからです。
おそらく今日、よほどいい加減で「何でもいいからマスを埋めておけ」といった教師と、非常に優秀できちんと記録が取れる教師以外は、私と同じような昔ながらの、勘に頼った所見の書き方をしているはずです。なぜならそれが一番楽で、しかも不誠実ではないやり方だからです。
【子どもがAIで作文を書いてきても】
子どもが生成AIを使って宿題をやってくることについても、私はさほど問題を感じていません。
「評価する側に本人が書いたものかAIに書かせたものか分からない」という話もありましたがそんなことはないでしょう。大学で100人もの学生に同時に小論文を書かせる場合ならともかく、普通の小中学校高校で、40人程度の子どもの指導をしていれば本人が書いたものかそうでないかは、ほとんど分かるはずです。
その子の日ごろの言動にあるまじき作文を提出してきたら、それはAIのなりすましです。どんなに表現をごまかしても、本筋がしっかりして常識的だったらその子の文ではありません。
先日、あるバラエティ番組でインタビューを受けていた女子高校生は、AIに作文を書かせたところあまりにもしっかりした文なので、「もっとバカっぽく」と書き直させてから提出したと自慢していました。しかし、それも教師は見破るはずです。。AIは「バカっぽい」表現に改めることはできてもバカになることはできないからです。平気でありもしないことを言う癖に、意図的に嘘をつくことはありません。
結局、教師がAIの文章に慣れればいいだけのことで、それも、毎日とんでもない量の文章を読む人たちですから、あっという間に慣れてしまうはずです。
【揺らぎ・逸脱・飛躍を評価する】
もっとも生成AIで書いたことを見破っても、指摘したところで「使った」「使わない」の水掛け論になるだけで何の解決にもなりません。また、生成AIをまったく使わずに文章を仕上げることが、必ずしも推奨されるわけではなく、むしろ適切に使いながら文章を仕上げることの方が推奨されます。だとしたらAIにできそうなことは評価の中心にせず、AIにできないことを評価すればいいのです。
「良く調べました」「文章がきちんとしています」「考えがしっかりしています」は、もはや評価の中心には置けません。AIが最も得意とするところですから。評価すべきは、
- 直接体験
「直接聞きに行ったところが素晴らしい!」「その場の匂いにまで気がついたところがすごい」「手で触った感じがよく伝わってきます」 - 課題設定の独創性
「よくその問題に気づきましたね」「普通はそんなことに気づかない。すごい」 - 結論の妥当性・特に人間的なものに対する理解
「分かっていてもできないといった人間性への理解が深い」「その迷い・困惑は理解できます」 - 残された問題の妥当性・個別性
「そこに新たな課題を発見したのですね」「残された課題が極めて個性的です」
【しかし子どもはたぶん宿題にAIを使わない】
子どもが生成AIに宿題をやらせる場合について考えてきましたが、本当のことを言えば、私はAIで宿題をやっていく子など、ほとんどいないのではないかと思っています。なぜなら今でも、電卓を使って計算問題をやってくる子どもはほとんどいないからです。
家でそんなズルをしたって、力がついていないことは学校でテストをすればすぐにバレることです。前述の高校生にしても、「宿題の作文は優れているのに教室で書く文章は稚拙」だと恥をかくだけです。今は“チャッピーに書いてもらった”などと大騒ぎしていますが、そのうち飽きるに決まっています。
【それでもAIを使い続けるひと】
ただ、それでもAIを使い続ける人もいるかもしれません。
俳優の中尾明慶さんはあるテレビ番組でこんなことを言っていました。
「ボクは子役の頃から芸能界にいて、勉強はさっぱりしなかった。だから恥ずかしいけど、常識というものがなくて、学校の先生に連絡帳で何かを書かなくてはいけないときも、どう書いたらいいのか分からない。だから友だちに書くときのような雑な文を書いて、それを生成AIに直してもらってから出している」
私は思わず心の中で、
「大丈夫ですよ。先生だって生成AIに直してもらってから返事をよこしているのかもしれませんから」
とつぶやいていました。
世のなかにはどうしても文章が書けないという人がいます。ちょうど私が正式に学んだにも関わらずついに一輪車に乗れなかったように、ダメなものはダメです。だとしたらその人は生涯、同じやり方でAIに書いてもらえばいいのです。きちんとした文章でなければ先生に失礼だと、そう考えただけでも立派です。
文章が書けるかどうかは、AI時代の今や、一輪車に乗れるかどうかと同じくらい重要なことではなくなっています。ですからどうしても書けない子が、全面的にAIに頼った宿題を出してきても、気がつかないふりをしてあげる程度の甘さは、あってもいいように私は思っています。
(この稿、終了)