カイト・カフェ

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「昭和の恋愛至上主義、愛がすべての時代」~『22才の別れ』考②

 昭和は華やかさとは裏腹な頑迷の時代で、
 家制度に縛られた若者に自由はなかった。
 そんなふうに思われがちだがどうだろう?
 そのころの若者、今の老人の話に耳を傾けてみなさい。 
 ――という話。(写真:フォトAC)

【昭和はどんなふうに見られているのだろう?】

 50年前の私の青春時代が今の若者の目にどう映るかを考えるとき、自分が若者だった時代にその50年前を「どう感じ、どう評価していたか」を思い出せばいい、そんなふうに考えています。いまは『22才の別れ』について話していますから、この曲が世に出た1975年のさらに50年前、つまり1925年を考えればいいのですが、1925年と言えば大正14年。翌15年の12月25日に大正天皇崩御され、わずか1週間だけの昭和元年が始まりますから、ほぼ大正末期から昭和初期を思えばいいということになります。
 余談ですが、昭和元年も一週間でしたが最終年(昭和64年)も一週間だけでした。

 今の若者にとっての昭和50年代は、私が若者だったころ見ていた大正~昭和の転換期と同じ――そう考えると何か暗澹たる気持ちになります。若いころの私が親たちの青春時代を理解できなかったように、いまの若者に私の青春時代が理解できるはずがない、そんなふうに思えるからです。

 昭和レトロのブームの中で、商店街や純喫茶・大衆食堂といったものが見直され、フィルムカメラカセットデッキ・レコード盤といった古い機器・機材が蒐集されたり、レトロファッションに身を包む若者がいたりと、肯定的にとらえられる面もありながら、文化的評価としては、学校や社会全体に根性主義がはびこり、職場のほとんどが現代で言うブラック企業化していて、厳しい上下関係、「飲みニケーション」が強要、セクハラ・パワハラが常態化していた狂気めいた時代だったと、そんなふうにも思われているように思います。

【毎日がお祭り騒ぎ、学園祭のノリ】

 しかし極端に短かった元年・末年を外しても、昭和は62年以上ありますし、戦争を挟んだ前と後では世界がまったく違っています。人口も1億2300万人(昭和63年)もいましたから、それぞれの見方考え方も、年代別・地域別・男女別などで相当違っていたはずです。

 ドリフターズを頂点とするテレビの低俗番組も皆が喜んでいたわけではなく、私を含めて多くの人たちが眉をしかめていましたし、「飲みニケーション」も、嫌な人にとっては強制でしたが、好きな人にとっては楽しみの場、私のような人間にとっては社会勉強の場・人間関係を紡ぐ場でした。
 働き方改革の観点から当時の職場の様子を見たり統計に出てくる数字を読んだりすると、当時の社会には今では信じられないほど非人間的な労働環境があり、長時間、パワハラ・セクハラが横行、怒号と暴力のはびこる時代だったということになりそうですが、私などはまったく違った印象を持っています。それはひとことで言えば、
「毎日がお祭り騒ぎ、学園祭のノリ」
ということです。
 とにかく楽しく、面白くて仕方なかった。忘年会もいわば年間シリーズの祝勝会ですから、楽しくないわけがない。ドジャースの祝勝会の様子を見て、大谷はシャンパンかけを強制されているのかもしれないと心配する人も少ないでしょう。

恋愛至上主義:愛がすべての時代】

 当時の結婚事情についても同じです。
 昔の若者は家に縛られ、親の言いなりで、家を継ぐという意識が強く、社会の同調圧力に屈して早く結婚する人がほとんどだった――と、それも昭和の一方の真実ですが、それも50年代(1975年~)以降はまったく違った流れとなっています。

 すでに結婚市場では恋愛結婚が主流になっていて、結婚後は夫婦二人だけの生活が始まるのが普通でした。核家族化が進行し、「家意識」はかなり廃れたものとなっていたのです。Wikipediaによれば、
 核家族率そのものは1920年大正9年)に54%とすでに過半数を占めており、1960年代に急激に上昇し、1963年(昭和38年)には流行語となった。世帯構造に占める核家族率は、1975年(昭和50年)の約64%を頂点として、以後約6割で推移している
ということですから、今、話題にしている1975年(昭和50年)こそが、「家」だの「家長」だのが最も忘れられた年、ということになりかねません。

 当時の若者が受けていた結婚に関する圧力も、「結婚すること」自体ではなく、「必ず素晴らしい恋愛を経て結婚すること」でした。結婚自体はするのが当たり前ですから強制されているという意識はありませんでした。ただ「見合い」や「相談所の利用」は能力や魅力のない人間のすることで、「恋愛結婚」こそ自由で独立した人間のすべき結婚の形態だと思われていたのです。最終的には「見合い」「相談所」というワイルドカードに頼るにしても、それは最終手段であって基本は恋愛、しかも燃えるような恋愛の末の結婚でなくてはなりませんでした。

【恋愛結婚のモデル、美しすぎる夫妻】

 昭和の恋愛結婚には実に鮮やかなモデルがいて、それが現在の上皇上皇后両陛下――昭和時代には皇太子ご夫妻と呼ばれた明仁・美智子両陛下でした。テニスを共通の趣味として軽井沢で燃えるような恋をし、皇室史上初めて民間から妃を迎えたかと思ったら、慣例を破って天皇家から離れ、三人のお子様を自らの手で育てた――その姿は「皇室アルバム」といったテレビ番組を通して刻々と伝えられ、それが日本の若い夫婦のあるべき姿となっていきました。朝食をテーブルで摂るといった生活のスタイルさえ、庶民は大まじめで真似しようとしました。

 その昭和の皇太子ご成婚が1959年(昭和34年)。高度経済成長期(1954・55年~1973年)にぴったり重なってイメージは熟成し、オイルショックを経てバブル経済に向かうころには恋愛至上主義は決定的になります。
「トレンディ・ドラマ」と呼ばれる一群のテレビ番組がつくられたのもこの時期ですが、『男女7人夏物語』『東京ラブストーリー』『101回目のプロポーズ』『あすなろ白書』、そういった作品が1986年(昭和61年)から1993年(平成5年)の間だったことを考えると、「男は外で働き、女は家庭を守る」とか「親の意向が強く反映される結婚」「親戚・近所からの圧力」とかいったイメージは何となく空虚に感じられてきます。

 「22才の別れ」の1975年は、恋愛全盛、恋愛至上主義の黎明期。そんな時代に煮え切らない男との5年の月日を「長すぎる春」と感じて手近な結婚をしていく主人公は、かなり古風な女性と言えるのです。
(この稿、続く)