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「禍福は糾える縄の如し、人生いろいろ、山あれば谷ありじゃないか」~人生の勝ち組とは何か④

 稼げる仕事に就いていない人間はダメなのか?
 安易に「勝ち組」などと呼んでからかうんじゃない!
 人生なんて下駄を履くまで分からないじゃないか。
 誰だって面白おかしく生きてきたわけじゃないだろ!
 ――という話。
(写真:フォトAC)

【稼げる仕事に就いていない人間はダメなのか】 

 今週火曜日からサブタイトルを「人生の勝ち組とはなにか」としてひとつながりの文章を書いてきました。きっかけになったのは月曜日のYahooニュース(元記事は「THE GOLD LINE」)に『本当に申し訳ない…〈退職金2,400万円〉60歳・元教員。人生勝ち組のはずが、年上妻も崩れ落ちた「懺悔理由」』という記事があって、これに触発されたからです。
 退職と同時に勤めを辞められるだけの資産を形成した元教員が、無知から無謀な投資に関わってあっという間に退職金の半分以上を失ったという物語。同じ「元教員」でいまは年金生活を送っている私としては、さまざまに引っかかる内容でした。

 中でも苛立ったのは、
「老後不安から多くの人が60歳以降も働き続ける選択をするなか、健司さんのように60歳で『上がり』を決め込めるのは、まさに『人生勝ち組』と言えるでしょう」
という部分です。健司さんは60歳で『上がり』を決め込んだのではなく、投資家として人生を送ろうとしたのです。退職を機に商売を始める人も新たな勉強を始める人もいるじゃないですか。
 私も、専業主夫で菜園と庭園(とは言ってもたいしたものではない)の管理をして勉強をして、昨年までは12年間、介護もしていたのに、稼げる仕事に就いていないというだけで、「60歳以降も働き続ける選択」をせずに済んだ「勝ち組」みたいに言われるのは、非常に迷惑なのです。

 同い年なのに60歳以降も勤めに出ている友人たちを見ても、いまも中堅の企業の社長だったり老舗の問屋の専務だったり、乞われて元の職場に手伝いに行ったり、あるいはどう考えても私より大きな資産があるのに暇を持て余して駐車場係の仕事に就いたりと、とてもではありませんが明日の生活に不安があるようには見えません。私の妻も講師として学校勤務に出ていますが、生活のためというよりは、講師不足の昨今、恩返しのために行っているようなものです。
 もちろん明日の生活のために60歳を過ぎても70歳を過ぎても働き続けなくてはならない人がいることは知っています。しかしそういう人たちは、THE GOLD LINEの記事が暗に示す『人生負け組』なのでしょうか。世の中の多数派なのでしょうか?

【禍福は糾える縄の如し、人生いろいろ、山あれば谷あり、ひとを妬んだり嫉んだりするんじゃない】

 バブル期のことを思い出したり、人手不足のおかげで働き方改革や賃上げの進む民間企業のいまの隆盛を考えれば、勝ち組がどこにいるかなんて簡単に言えないはずです。

 THE GOLD LINEの記事の元教員は現役時代、金のことなどまるで考えずに働き詰めに働いた。使う暇もなかった。そのおかげで自然と貯蓄もできたが、市場や投資の勉強ができなかったのも事実。そもそも《老後は投資で生きていこう》と考えたこと自体が世間知らずにもほどがあります。おかげで彼は1,400万円もあっという間に失った。まさに「負け組」です。民間企業でしっかりと社会の勉強をしてきて、60歳以降もきちんと勤めている人たちこそ、真の「勝ち組」なのかもしれません。

 そもそも「勝ち組」「負け組」などと言って人生を途中で切り取って評価するからいけないのです。1989年で切り取れば商社・証券会社を筆頭に民間企業で働くひとこそ「勝ち組」でした。2025年の現在を切り取っても、教員や市役所の職員になっていく人たちを「勝ち組」と思う人はいないでしょう。もちろん就職超氷河期に公務員になった人たちはその時点で「勝ち組」だったのかもしれません。
 いや、昨日も言ったように、勝ち負けはいくら金を残したかではなく、いくら使ってどれくらい楽しんだかで決まるのかもしれません。だとしたら私は「負け組」です。

 禍福は糾える縄の如し、人生いろいろ、山あれば谷あり――教員上がりを「人生勝ち組」だなどと言って羨んだり揶揄して遊んだりするんじゃない! 私たちだって大変だったのだ。民間がいかに厳しいとはいっても、月80時間以上の時間外労働をほとんど無給で働かせるブラック企業がほとんどというわけではないだろう。土日もなく、自腹の出費もいとわず働く仕事が、世の中にどれだけある?
 ――それが今週の私の、ものごとを考える推進力でした。いちおう気が済みました。

【人生の総括】

 金にまつわる話はここまでにしましょう。そもそも「金があるかないか」だけが「勝ち組」「負け組」の基準ではありませんし、「勝ち組」「負け組」といった人生の結果(もしくは中間決算)を問う括り方自体が古いので、現代はスタート時点で人生が決まっていると考える「親ガチャ」論の時代です。個人の努力や経験が運命を決めるわけではないと考えれば不遇でもあきらめがつくというものです。そう考えたい人は、そう考えればいいのです。
 私は勝ったとも負けたとも思っていませんし、結局、親の枠を超えられなかったとも思いません。
 それなりに努力した、それなりに楽しんだ、それなりにいい人生だったと、本気で思っています。

 さてその上で、です。その上で、私は何を考えているのか、何を考えようとしているのか――「Tさん(私のこと)は勝ち組だから」と言われたことに、まだまだ何か強いこだわりがあるようです。
(とりあえず、この稿は終わります)