日本人を日本人に育てる教育は今、縮小に向かう。
学力偏重と詰め込み教育、そしてコロナ禍――。
それらが日本らしい教育の骨を抜こうとしている。
輝かしい日本は、自らその地位を捨てつつある。
――という話。
(写真:フォトAC)
【蓬(よもぎ)も麻中(まちゅう)に生ずれば扶(たす)けずして直し(なおし)】
結局、「日本の教育は集団力を高めることで個を高めようとするものだった」と要約することができます。その集団力が、十分に資金のない研究の場や、体格的に恵まれない日本人が世界で戦おうとするスポーツの場で力を発揮します。
荀子は「蓬も麻中に生ずれば扶けずして直し(蓬生麻中 不扶而直)」と言い、意味は「くねくねと曲がって育つ蓬(ヨモギ)でも、麻のようなまっすぐに伸びる植物の中に生えれば、 手を加えなくても真っ直ぐに成長する」というものです。
個はそれぞれの性質を持って育ってきますから、そのままだと必ず正しい道を歩むとは限りません。しかしだからといって正しい道を強制すれば傷みます。大きく曲がって育ったあとで真っ直ぐにしようとしても、骨が折れるばかりできちんとした姿になるはずもありません。
大切なことは幼いころから真っ直ぐに育つ集団の中に入れて、自然にまっすぐ伸びることを待つのです。そのためには集団自体を育てておかなくてはなりません。
優秀な教師はそのために様々な仕掛けをします。合唱コンクールやクラスマッチ、文化祭や修学旅行などの行事で、より上位に食い込むためにはどうしたらよいか、より充実した行事にするためにはどんなことに気をつけたらよいのか、生徒に考えさせて実行させる中で、大人になるための知識と技能を身につけさせるのです。
子どもたちにとっては行事に夢中になっている中で身につくものですから、大した苦もなく訓練に励むことになります。それが昭和の学校教育でした。
近年、部活動に熱心な教師たちを「BDK」(部活大好き教員)と呼んで侮る風潮がありますが、BDKのほとんどは「部活動ばかりやっていて教科指導・学級指導のできない先生」ではありません。教科指導も学級指導もうまい教師が、どん欲にも部活動にまで手を出して子どもの力を伸ばそうとしている、それが実態です。部活で手を抜いても教師は務まりますが、本業(教科指導や学級指導)で手を抜いて教室が炎上すれば、部活どころではないからです。
【平成・令和の学力偏重】
平成以降の学校教育をひとことで言えば「学力偏重と詰め込み教育」です。
ここで言う「学力」とは、平成元年(1989年)の学習指導要領改訂で導入された、
「知識偏重から脱却し『思考力・判断力・表現力』などを重視する新しい学力の捉え方」(=新学力観)を言います。つまり「読み・書き・計算」のような古くから存在する学力を偏重する傾向から「思考力・判断力・表現力」といった目に見えない新たな学力を偏重する方向へと修正されたと考えるわけです。
背景としては高度経済成長後の社会変化が激しくなり、「知識の詰め込み」では対応できないという危機感、および「変化に対応できる力」「自ら学ぶ力」が求められるようになったという社会状況がありました。簡単に言うと「優秀で均一的な大量の労働者を育てる教育」から、「少数でもいいからジョブズやゲイツの生まれる教育」への変更がなされたというわけです(実際にジョブズやゲイツが生まれるかどうかは別ですが)。つまり、学力の定義が変わっただけで、学力偏重には変わりなかったのです。
ただし教師の立場は大きく変わりました。古い教育観のもとでは、教科書の内容をきちんと理解させ、身に着けさせればよかったのですが、新学力観では学習内容自体が教師に任されたのです。当初、いきなり年間105時間もの時間を与えられた「総合的な学習の時間」(のちに70時間に減らされた)の中で、
「何をやってもかまわない、時間はたっぷり与える、その中で教師の独自性・独創性を生かした自由な活動をしてかまわない。ただし『思考力・判断力・表現力』だけはしっかりつけろよ」
というものでした。私のような普通の教師が「思考力や判断力のつく活動をしろ」などと言われても何をすればよいのかわかりません。これが大変な負担になりました。
【平成・令和の詰め込み教育】
もう一方の「詰め込み教育」については説明が簡単です。
昭和55年(1980年)施行の学習指導要領では年間1015時間だった総授業時数が、完全学校五日制で土曜日の授業がなくなったのを機に平成4年(1992年)、一気に850時間に減らされたのです。それを平成20年(2011年)、社会からの猛烈な「ゆとり教育」批判を受けてもとの1015時間に戻したのですが、完全五日制は戻さなかった――いわば、
「どんぶりでご飯を食べていたのを普通のご飯茶碗に換えた。それを機にご飯も減らしたのに、器はそのままにご飯だけは元に戻した」
わけで、「詰め込み」になるのは当然です。おまけに環境教育やキャリア教育が始まり、小学校では英語教育やプログラミング学習も始まります。小中学校の児童生徒には全国学テ、教師には教員免許更新制と、学校は詰め込みの上に詰めこみを重ねます。
先ほどのたとえに重ねると、茶碗から溢れそうになったご飯の上に天ぷらやとんかつ、卵でとじた鶏肉などを次々と乗せてビックマックみたいな丼を作ってふたをしようとするようなものです。とうぜん何かがあぶれてくる。
【コロナ禍が消したものはあれでよかったのか】
令和のコロナ禍は社会の在り方に様々な変化を与えましたが、学校も変わらざるを得ませんでした。4年に及ぶ自粛の中で、私たちは意外なことに気づきます。小学校では運動会がなくても困らない、音楽会が消えても困らない。中学校では文化祭や体育祭、部活動がなくなってもどうということがないと明らかになったように感じたのです。
今日、運動会や音楽会、文化祭などが縮小され、中学校では部活動がなくなりつつあります。先ほどの巨大丼の例を続ければ、どんぶりと蓋の間にかろうじて挟まっていた山ほどの具材から、一部を抜き取り始めたということです。しかしその抜き取り方が妥当であったかどうかは疑問です。
運動会や文化祭、部活動など、いずれもコロナ禍に縮小して困らなかったものですが、算数や数学、国語だって自粛しても困らなかったに違いないからです。教科の学習をやらなくて困るのは、ずっと先になってからのことです。特別活動や部活動をやらなかったことの弊害も、ずっと先になってわかることかもしれません。
(この稿、次回最終)