先週、ノーベル賞が発表され、
日本からは二人の科学者が受賞した。
21世紀に入ってから25人目と26人目の快挙だ。
しかしこの栄光、いつまで持続できるものなのか?
――という話。
(写真:フォトAC)
【過去の栄光:ノーベル賞決まる】
先週はノーベル賞ウィークで日本からも二人の受賞者が出ました。去年の被団協(日本原水爆被害者団体協議会)に続く2年連続の日本からの受賞ですが、自然科学系では2021年の真鍋淑郎さん(物理学)以来3年連続で受賞者がなく、「21世紀になってからの受賞者数はアメリカに次いで世界第二位(イギリス同数)」という栄誉に終止符が打たれるのではないかと心配されました。しかしどうやら持ち越したらしく、改めて日本の科学技術の先進性が証明されたわけです。
しかしノーベル賞は研究の発表から20年~30年を経て価値や内容に絶対に間違いがないと確定してから与えられるものですから、現在の受賞ラッシュも20~30年前の研究成果が評価されてのこと、当時の環境が優れていたことを証明しているにすぎないという言い方もできます。
今回受賞の坂口志文・北川進両氏の授賞理由も1990年代を中心としたもので、1990年代といえばすでにバブル経済は終わって潤沢な研究費といった時代ではなくなっていたものの、昭和最晩年の充実した研究インフラと、大学や民間の研究室の“何をやってもかまわない”という自由な雰囲気の中で生み出されたものといえます。
今回の受賞対象である「末梢性免疫寛容(制御性T細胞の発見・解明)」も「金属有機構造体(MOF:多孔性材料)の開発」も、どちらも何のことかわかりませんが、成果が見えるようになるまで、周囲のみんなが首を傾げるような可能性の少ない研究内容だったといいます。1990年代の日本の研究者たちは、そんな海のものとも山のものともつかない研究に、いつまでもこだわっていられる余裕があったのです。だからこそ獲得できたノーベル賞であって、現在のように常に成果を出すことが求められるようになると、真っ先に排除される研究だということになるのかもしれません。
【現在の方向:30年後の近未来ではなく、明日の儲けのために】
基礎研究というのはなかなか収益に結び付きませんから民間の研究所向きではありません。だからどうしても大学の研究室に頼らざるを得ないのですが、
「2000年以降、世界各国は大学の研究開発費を増やしています。ドイツは2.7倍、アメリカは3.4倍、韓国は7.0倍、中国に至っては35.9倍増。それに比べて、日本は1.0倍と全く伸びていません」(2025.10.11文春オンライン)
というお寒い状況。
自然科学はどうしても実験や観察が優先。どんなに素晴らしいひらめきも資金がなければ現実化できず、現実化しない研究はないも同じです。では今の日本の科学研究がどんなレベルにあるかを調べてみると――。
それぞれの国や地域がどれほど優れた研究をしているかは、その国(地域)で発表される研究論文がどれくらい引用されているかという「研究論文引用数ランキング」で示すことができます。
日本の場合、2021年~2023年の平均で「トップ10%被引用論文数」(非常に優れた論文)の数が「世界第13位」(イラン・韓国より下)、さらに優れた「トップ1%の引用論文数」は14位で、現在スペイン・韓国にも抜かれている状況です。
そこで現在ノーベル賞を獲得しているような研究が行われた20年以上前、例えば1996年~2001年の平均を見ると、「トップ10%被引用論文数」の数は「世界第4位」、さらに優れた「トップ1%の引用論文数」も4位前後という高い順位にあったのです。
そう考えると、今から20~30年後の日本は、もう自然科学系の分野でノーベル賞を取ることはなくなっているのかもしれないのです(だからと言って平和賞や文学賞の受賞者が増える見通しもありませんが)。
先ほど引用した文芸春秋オンラインでは、2001年のノーベル化学賞受賞者の野依良治さんが、政府の出す「科学研究費助成事業」について、
「総額の77%が20%の研究者に集中し、約90%をたった十数校の国立や私立の有名大学が受領」
していることを問題としています。早く結果を出してくれそうな、定評のある(ということは古いタイプの)研究者に集中的に資金を与え、そこで研究してもらおうというもので、効率がいいと言えばいいのかもしれませんが、多様な、そして今回ノーベル賞を受賞したお二人のような、特異な内容の研究をしようという人のところに資金は回ってこないことになります。これも、将来、日本人のノーベル賞受賞者が出なくなるという話の論拠になっています。
【学校教育も同じ】
アメリカ型のマネジメント哲学は短期間に成果を出すことには向いていますが、息の長い研究を支援するようにはできていません。それは義務教育学校の教育内容も同じで、ここ20年余りは目に見える成果が強く問われるようになって、そうでないものの評価は大きく落ちてきています。目に見える成果とは、「全国学力学習状況調査」のような統一テストの成績、あるいはPISA(OECD国際学習到達度調査)のような国際比較の成績のことです。しかし日本の子どもたちの全体の、算数・数学、理科・英語といった教科の学力を上げることは、それほど重要なことなのでしょうか?
老いも若きも日本人全員が国際社会に切り込んで、数学や理科で勝負する時代が来るとは、とても思えません。それよりも一人ひとりが外国人に対しても親切で、外出先では物静かに過ごし、ごみも常に持ち帰る。きちんと列をつくって混乱を避け、社会全体の秩序を守ろうといつも心掛ける、そんな日本人を育てることの方がよほど大切だと思うのですがいかがでしょう?
いま来日外国人に絶賛される日本人の美質は、20年も30年も前の教育を受けた現在の大人たちによって支えられているのです。人間関係の修行の場である特別活動(学校行事や児童生徒会、クラブ活動)を削っても英語や数学の学力を伸ばそうという教育を受けてきた人たち、具体的には2010年以降の反ゆとり教育を受けた人たちが社会の主力になっていくころには、いまよりもずっと多くの人々が英語をしゃべり、大人になっても因数分解や関数の計算ができるようになっているかもしれません。しかしその代わり、街の美観を守るとか、人に道を譲るとかいった日本的道徳観は失われ、人々の態度や生活も国際標準に近づいていくのかもしれません。
(この稿、続く)