三谷幸喜は「物語の9割は自分探しが主題だ」という。
それは言い過ぎだが、未熟な子どもを中心に置き、
その成長を見守るというのが日本文化の一部の特色だ。
そうしたアニメ・アイドル文化の中で、子どもは育って来る。
――という話。
(写真:フォトAC)
【成長が主な主題】
ちょうど1カ月ほど前のネットニュース(スポーツ報知)に『三谷幸喜氏が断言「この世の中にある物語の9割は同じテーマなんです」…ずばり4文字で説明』という記事がありました。
「4文字」とは「自分探し」だそうです。
「これ以外のテーマはないと言ってもいいぐらいです。どんな物語も最終的には自分探しなんです」
テレビドラマを見ただけでも医療ドラマもあれば推理物もあり、コメディもありますから「9割は自分探し」というのも言い過ぎでしょうし、挙げている例を見ると「桃太郎」だの「鬼滅(の刃)」だの「ルパン3世」だのと日本のものばかりですから、三谷氏の言う「この世の中」も日本限定であるのかもしれません。
さらに言うと、三谷氏は「自分探し」と「成長物語」を混同していて、確かに桃太郎や「鬼滅の刃」の(竈門)炭治郎の物語は「成長物語」ですが、彼らが「自分探し」をしていたかどうかは疑問です。
桃太郎の目的ははっきりとしていて、彼は鬼退治のための修練と仲間づくりを通して「強い自分」をつくり上げ、鬼ヶ島に攻め入って勝利するという道筋を、まっすぐに辿っていきます。「鬼滅の刃」の炭治郎も、鬼殺隊入隊後は仲間や「柱」との関わりを通して、ただの優しい少年から鬼殺隊の「柱」に匹敵する存在へ成長していく人生を送り続けます。
そこには「自分とは何か」といった曖昧な問いはなく、ふたりとも自らに対して「やがて完璧に“鬼”を退治するはずの自分」しか見ていません。
三谷氏がルパン3世の名前を出しましたので私も言及しますが、ルパンもまた、自分自身を「やがて完璧な泥棒、完全な詐欺師になる者」としか見ておらず、そこには一片の迷いもないはずです。
迷いは彼らの生き方を見る私たちの側にあります。炭治郎やルパン3世に惹かれるのも、目的をもって揺らがない、その真っ直ぐな生き方が私たちにないからなのかもしれないのです。
【子どものための文化】
振り返ってみると日本文化の大きな一翼を担うマンガ・アニメは、子どものための文化として生まれ、「子どものため」という要素を一度も失うことなく今日まで来ています。
日本初の連続テレビアニメ「鉄腕アトム」(1963年)の主人公アトムは、天才科学者天馬博士が亡き息子トビオに似せて作った子どもロボットで、感情を持ち、小学校にも通っています。
続けて生まれた「鉄人28号」(1964年)は巨大ロボットですが自立型ではなく、リモコンによって動く人間の道具です。コントローラーの使い手次第で、善にも悪にもなれる存在で、しかも通常の使用者は金田正太郎という少年ですから、その意味で、どれほど巨大であっても二重三重に未熟な存在だったのです。
三番目の「エイトマン」(1965年)は殉職した刑事の記憶と人格を移植された人間型ロボットで、外見的には普通の成人男性です。時速3000㎞で爆走し、透視能力や超音波聴覚などを備えたスーパーロボットで、人工皮膚と可変装置で変装もできるという優れ者でしたが、電子頭脳のオーバーヒートを防ぐために時々冷却剤を仕組まれたタバコ型カプセルを吸引しなくてはならないという、今では信じられない設定で当時でもPTAなどによって問題視されました。
「八幡」という古事記にも日本書紀にも出てこない異端の神を意識した「エイトマン」は、アトムや鉄人とは違って主人公が成人であるために今日に伝わらず、人々の記憶から消えていました。私立探偵として働く日常の生活では東八郎(エイトマンだから)と名乗っていますが、現在、「東八郎」を検索するとヒットするのは1970年代に活躍したお笑いタレントで、2世お笑いタレント、元Take2の東貴博(妻はタレントの安めぐみ)のお父さんにあたる人です。志村けんの“バカ殿”に仕える家老役などで人々の記憶に残されていますが、同じ名前のスーパー・ヒーローがいたことはリアル「エイトマン」世代の私たちですら覚えていません。
アニメ・ヒーローは大人であってはいけないのです。
その点はアメリカ生まれのスーパーマンやバットマン、アイアンマン、スパイダーマンと比較すると歴然としています。一番若いスパイダ―マンでさえ、デビューのころはすでに高校生でした。
【未熟であることが前提】
「未熟であること」は、この国では一部の文化の前提にすらなっています。その面の先駆もおそらく「鉄腕アトム」です。
生まれたてのアトムは学校に通い友だちと触れ合う中で、「自分は人間ではない」という疎外感を抱くようになります。さらに生みの親の天馬博士が亡くなった自分の子と違うことを理由にアトムを捨ててしまうと、その経験は「愛されない存在」という深い傷となって心に残ります。
超人的な力を持ちながらも、それゆえにアトムは社会の偏見や差別にも直面します。感情や権利を認められない場面も多く、自分の存在意義を問い続けるしかありません。その、自らの存在を問い続け、科学技術や社会のエゴに翻弄されながらも、強い意志と情熱を持って生きる姿こそ、私たちがアトムに惹かれてやまない理由です。
そうした原型の上に、碇シンジ(『新世紀エヴァンゲリオン』)も月野ウサギ(『美少女戦士セーラームーン』)もいるのです。
さらにマンガ・アニメを離れて世の中を見れば、旧ジャニーズ系の男性アイドルやAKB・坂道シリーズも、同じ路線の延長上にあると言えます。
前提としてステージに立つのは子どもであり、未熟であること。決して韓流グループのような高い完成度をもって登場しないこと。ファンは未熟なうちに”推し”を発見し、長く成長を見守ること。時には中年を過ぎても寄り添い続けること、それが日本カルチャーと呼ばれるものの一部となっています。
1992年に『私がオバさんになっても』をヒットさせた森高千里は、ほんとうにオバさんになった今も、ライブなどで活躍しています。
(この稿、続く)