カイト・カフェ

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「ばいきんまんとダメおやじの生き方と、専門家に任せる見切り」~度し難い傾向を持つ人々の話③

 生きるのが難しい人を支えて行くことは大切だ。
 しかしそれにもほどがある。
 カエルはサソリを背中に乗せてはいけない。
 人は実力以上のものを背負ってはいけない。
――という話。(写真:フォトAC)

アダルト・チルドレン=間違って広がった概念】

 最近はだいぶ廃ってきて良い傾向かと思うのですが、かつて、民間心理学の世界に“アダルト・チルドレン(AC)」という概念が広がって、扱いが面倒な時代がありました。

 斎藤学という精神科医が1996年に著した「アダルト・チルドレンと家族: 心のなかの子どもを癒す」(学陽書房)がベストセラーになって爆発的に広がった概念ですが、当初、「アダルト・チルドレン=大人子ども」からの連想で「(いわゆる)とっちゃん坊や=子ども心を忘れない人々」とか、「大人になり切れない人たち」とか、あるいは「親から自立しない人々」とかいった誤った印象で広められたため、かなり分かりにくい概念になってしまいました。
「大人になり切れない子ども」や「子ども心を忘れない人々」を尊重する文化は我が国に横溢していますし、「親から自立しない人々(=甘えん坊)」もいくらでもいます。何が問題なのかむしろ分からなくなりそうでした。

【機能不全の家庭で成人した子どもたち】

 “アダルトイ・チルドレン(AC)」は元を質すと「adult children of alcoholics(ACOA:アルコール依存症の親を持つ成人した子どもたち)」の略語でした。1970年代アメリカのアルコール依存症治療の現場で、依存症の患者と配偶者たちに、共通する心理的特徴があることが注目され、医療関係者の間でささやかれるようになった言葉だと言われています。

 《飲酒をコントロールできず妻に依存する夫》と、《「自分がいなければ相手はだめになる」と世話を焼き、そこに自身の存在意義を確認する妻》という関係性が、アルコール依存症治療の本質的問題だと考えられるようになって、その状況を説明する「共依存」という概念が生まれると、依存症治療のひとつの枠組みが定まったといわれています。

 しかしのちに共依存の担い手(アルコール依存症の患者とそれを支える配偶者たち双方)の多くが、実はアルコール依存症の親を持つ家庭から育って来ていることが知られるようになり、ACはアルコール依存に限らず、「機能不全の家庭で成人した子どもたち」の問題だと概念が拡張されました。その結果、ACは「adult children of dysfunctional family(ACOD)」の略語だともいわれるようにもなったのです。どちらも、医療における診断用語、病名ではありませんが――。

【概念を疑う】

 私は斎藤学の著書によって「アダルト・チルドレン(AC)」という概念を知りましたが、その後の急速な概念の拡大(あれもこれも家庭のせい)にはついていけなくなり、最終的な着地点としては最初の場所《「アルコール依存症の親を持つ成人した子どもたち)」の「共依存」の問題》に限定してACを考えるようになりました。
 さらに言えば「共依存」という相互的な概念ではなく、精神的にも経済的にも生活習慣としても配偶者に依存する患者と、「自分がいなければこの人はだめになる」と自己犠牲にはまっていく配偶者、という別個のものが共存しているだけで、同じ枠組みとして考えてはいけないのではないかと思うようになったのです。

 確かに、アルコール依存症患者の家庭から同じ依存症患者が育ちやすく、その配偶者も類似の家庭から育ってくるにしても、離婚歴のある親の元で育った子は離婚しやすく、厳格すぎる家庭で育った子はどんなに親を反面教師にしようとしても厳格な家庭を築きやすいといったのと同じで、“決して望ましいものではなくても、自分が生まれ育ってきた環境は居心地がいい”、その程度のことではないかと思うのです。

ばいきんまんとダメおやじの生き方】

 先週金曜日にここで、NHKの朝ドラ「あんぱん」が終わるよ、という話をして、わがままで身勝手なドキンちゃんを支えるばいきんまんについて触れました。確かにドキンちゃんは美人で可愛くて、目の離せない女の子です。しかし仮に愛していたとしても、何十年にも渡って振り回され、もてあそばれ、社会からは孤立しなくてはならなかった状況を考えると、いくら何でもそろそろ、いや、とうにドキンちゃんに対して「ばいばいき~ん」と言っていていいはずです。
 それがいまだに同じ状況を続けているのは、「愛している」「ほかに行く場所がない」といったこととは別の理由があるに違いありません。
 それこそがACの概念の中で盛んに使われた「自分がいなければこの人はだめになる」という感じ方です。ばいきんまんはそうした意識にとらわれています。
 
 もっとも献身的で自己犠牲的に聞こえるこの言葉、ちょっと捻ってみると実はそれが自己効力感や有能感の問題であることはすぐに分かります。
ドキンちゃんのわがままとドキンちゃん本人を継続的に支えていく精神・能力・経済力をもつ者は自分を置いて他にない》
という確信――そして常にその力を確かめていたいという欲求、それがばいきんまんの活動を支えています。共依存と名付けるかどうかは別として、それは現実に存在する力です。

 それをさらに突き詰めていくと、1970年代に大ヒットしたギャグマンガの「ダメおやじ(オニババ編)」に繋がります。殴られても、蹴られても、頭に包丁を突き立てられても、妻(オニババ)を支えて行こうとするダメおやじは、それこそが献身と自己犠牲、そして自己効力感と有能感の権化のように見えます。
《自分の妻は誰でも務まるが、オニババの夫は自分にしか務まらない》
 しかしそれもまた正しいこととは言えない――。

【専門家に任せる見切り】

「サソリとカエル」の寓話が教えることのひとつは、“決して近づいてはいけない対象がある”ということです。それは組み合わせの問題で、ばいきんまんドキンちゃんのそばにいる限り問題は常に発生し、物語は続きます。「パンこうじょうの町」に平和は訪れません。ダメおやじと一緒にいる限りオニババが成長することもなく(マンガではそうでなかったようですが)、陰惨な生活はダメおやじが死ぬまで続けなくてはいけません。
 私もかつては難しく面倒くさい子たちが好きで、彼らに近づきたがりました。主観的には「あの子たちを助けたい」「悪いところから引き上げたい」という思いでしたが、背後には常に自己効力感や有能感の問題はありました。
 幸い私の能力は付け焼刃の部分が多く、すぐに音を上げて専門家に預けてしまうことが多かったのですが、サソリに近づくなら亀の甲羅をまとっていくくらいの覚悟が必要で、素人が素手で行くべき場所ではない場合もあるのだと、今は思います。

(付記)

 先週金曜日の記事に、
NHK朝の連ドラ『あんぱん』にかつて登場した人物で、消えて二度と出てこない人たちがいる。なかでも男性主人公の育った家のお手伝いさん、女性主人公の女学校の先生、東京へ出てくるきっかけとなった女性政治家が気になるが、その人たちの行く末が語られることはないだろう」
といったことを書きましたが、そのうちあとの方の二人について、昨日の放送で現在が明らかになりました。びっくりするとともに、とてもうれしい気分になりました。