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「読み聞かせ:日本語の愉しみと役を演じる面白さ」~子や孫に、本と読書の習慣を贈る④

 本の読み聞かせは、読み手にも幸せをもたらす。
 読むことで日本語を愉しみ、
 読むことで演じることを楽しむ。
 しかし多忙な今日、学校の時間割に読書は入りきらない。
という話。(写真:フォトAC)

【教職:すべての経験が役に立つ】

 10代の最後と20代の大部分を東京で過ごし、当時は小劇場ブームということもあって、数多くの芝居を見に行っていました。「文学座」「東京演劇アンサンブル」といった大御所劇団もあれば、「劇団青い鳥」(木野花)や「劇団3〇〇(さんじゅうまる)」(渡辺エリ子)といった、そのころはまだ海のものとも山のものともわからない劇団にも足を運びました。

 手軽な入場料というのが選択の基準なので、行き当たりばったりの鑑賞で、何かが身についたという気もしませんでした。しかし面白いもので30歳で中学校の教員になり、さらに10年あまりも経った頃、突然のピンチヒッターで演劇部の顧問を任されて、それでもうまく乗り切れたのは「どんな経験でも役に立つ」教職ならではのことだったと思います。

 また、覚える気持ちで見ていたわけでもないのに、20代で心になじんだ小劇場独特の語り口調やスピード、あるいはリズム感とかいったものは、どこかに体の中に残っていて、大勢の前で話すときのや聴衆(主に児童生徒)の集中力を維持したいといったときに役立ちました。
 歴史の授業では信長や秀吉になり切って進めたこともあります。もちろん信長や秀吉がどんなしゃべり方をしていたかは知る由もありませんが。

 さらにこうした経験は、小学校の教員となってからも、読み聞かせの時間などで大いに役に立ちました。

【日本語の愉しみ】

 例えば、「カラスのパン屋さん」加古里子偕成社)。
 香ばしいパンの匂いに引き寄せられた子どものカラスたちが、「おいしいお菓子パンが焼けた」と言って大勢でパン屋に向かうと、「パンが焼けた」を「パン屋が焼けた」と勘違いしたあわてんぼうのゴロベエどんが消防署に通報して――消防署も消防署で確認もしないまま隊員を出動させたので、
 かじだ かじだ
 おおかじだ。
 まっかっかのおおかじだ。
 けがにん たくさん
 でたそうだ。
ということになってしまいます。だれも言っていないのに「けがにん たくさん 出たそうだ」などと適当な情報が加わったことで救急車も出動し、
 なんだ どうしたおおけがだ。
 ちが でて
 たおれて
 おおけがだ。
 しにそなくらいの
 そうどうだ。
ということになります。そのあとも「そうどう」を勘違いした武装警官隊やら市井の人々やらが、次々と現場へ向かうのですが、そのあたりの文章は明らかに講談か落語の調子で、軽快に畳みかけるように読むべきところです。読み手の腕の見せどころです。

 腕の見せどころと言えば、その直前に「焼きたてのおいしいお菓子パン80種類」が2ページにわたって紹介されています。それをいかに早口で読み切るかは、はなかなか気合の入る場面です。活舌が今ほど悪くなかった若い時期は、80種のパンの名前を、2回~3回の息継ぎで一気に読み終えるのが得意技でした。一度などは児童の間から拍手が起こったほどです。

【役を演じる面白さ】

 児童書の一部は、日本語の語感やリズムを楽しむようにしつらえてあります。「カラスのパン屋さん」がそうですし、孤独な少年と三人の妖怪の交流を描いた「めっきらもっきら どおん どん」(長谷川摂子福音館書店)も、題名がすでに示しているように、日本語の語感が大切にされた一冊です。
 しかし同時に登場人物のキャラクタがしっかりと立って、読み手にとっては人物(怪物)を演じ分けることが楽しい一冊にもなっています。
 小柄な悪ガキふうの女の子「しっかかもっかか」、長身で陽気なお祭り男風の「もんもんびゃっこ」、頭頂部が長く伸びて見かけは福禄寿そっくりの「おたからまんちん」、そう聞いただけでもどんな声色、どんな口調で読めばいいのか、イメージが湧いてこようと言うものです。児童書の読み聞かせにはそうした楽しみもあるのです。

 ただしそれも、登場人物3~4人の短い物語ならいいのですが、昨日お話しした「ルドルフとイッパイアッテナ」(斉藤 洋:講談社)みたいな長編で、登場人物も多くなると厄介です。とりあえず読んでいる私が覚えきれない。
 
「あの、先生、ちょっといい? さっきから聞いていると、イッパイアッテナ(ボスネコの名前)と魚屋のおじさんの声が同じように聞こえるんだけど・・・」
「いやそんなことはないだろう。別人というか、そもそも人間とネコだ」
「じゃあ、やってみて」
「まず、イッパイアッテナは『オレの名前はイッパイアッテナ』、魚屋のおじさんは『あいよ! おいらは魚屋だい!』――ホラ、違うだろ?」
「ほんとだ――じゃあブッチーは?」
「『オレはブッチーだ』」
「魚屋のおじさんは?」
「『おいらは魚屋だい!』」
「イッパイアテナは?」
「『オレの名前はイッパイアッテナ』」
「魚屋のおじさん」
「『おいらは魚屋だい!』」
「ホラ、やっぱ魚屋のおじさんとイッパイアッテナは同じじゃない」
 小学生も4年生以上となると、こんなふうに担任をからかうのが楽しいみたいなのです。

【「朝の読書」が消えていく】

 小学校で読み聞かせをして子どもと軽いやり取りをする――そんな時間がどこにあったのかというと、それが朝の「10分間読書」なのです。
 普通は子どもたちが自由に本を読む時間なのですが、10分間というのは本の好きな子にとっては短すぎ、嫌いな子にとっては「読んでいるふりを続ける長い長い10分間」ということになっています。だとしたら児童の自由にせず、「担任が自分の好きな本を好きなように聞かせるわがままな時間」にしてかまわないじゃないかと、そう思ったのです。

 本の選択を誤って「銀河鉄道の夜」が一か月かかっても終わらなかった(10分×20登校日=200分=3時間・・・確かに終わりそうにないな)とか、以前に読んだ本を再び仰々しく読み始めて子どもたちに呆れられてしまったとか、さまざまに事件・事故もありましたが、総じて楽しい時間でした。少なくとも私にとっては――。
 ただしそれも四半世紀も前の話です。「朝読書の時間」は今、どうなっているのでしょう?

 私の周辺では毎日の活動としての朝読書は、10年以上前になくなってしまいました。ゆとり教育の見直しで「朝読書」の時間が「朝ドリル」に変わったり、小学校英語のレッスンが細切れに入ったり、プログラミング学習を行ったり――。とてもではありませんが本など読んでいる暇はないのです。読書の習慣をつけるかどうかも、今や家庭任せの時代です。
(この稿、次回最終)