カイト・カフェ

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「過ちが何かを生み出すかもしれない、必ず間違うから信頼できる」~生成AIの可能性と不安②

 生成AIは間違いを犯す。
 その性質上、間違いを犯さなくなる日は来ない。
 しかしAIの過ちが芸術を生み出すかもしれないし、
 AIが間違うからこそ、私たちは歴史の主人公でいられる、
という話。(写真:フォトAC)

【私を信じないでください】

 ChatGPTではありませんが同じ生成AIのCopilotの画面の片隅には、「Copilot は間違える可能性があります」という注意書きがあります。私たちはこの能弁なプログラムに繰り返し騙されてしまいますから、生成AIが誤りを犯すというアナウンスはいくら行われてもいいものです。
 2022年の11月にChatGPTがリリースされてしばらくの間、その成長のすさまじさに私たちは生成AIが明日にも完璧な力を持つように思いましたが、意外とそうではありませんでした。「息をするように嘘をつく」といったいい加減さは薄れましたが、「1%の嘘を信じ込ませるために99%の真実を語り続ける」やり方は詐欺師そのものです。私が繰り返し騙されるのも「99%の真実」が手放せないためです。

 なぜ生成AIが間違いを犯すかというと、それは情報源を玉石混交のインターネット社会に求めているからです。単純な思い込み、身勝手な主張、悪意あるニセ情報――ネット上にはそうした誤った情報が繰り返し流入しますから、そんな場所に依拠する生成AIは、この先も同じように同じような過ちを繰り返すはずです。

 コンピュータのすさまじい力を借りればいつか虚偽や間違いを排除できるはずだという考えもあるかもしれませんが、突き詰めたその先には「何が真実で、何が虚偽か」といった哲学的課題が立ちふさがりますから、いつまでたっても安心して使えるAIは現れないことになります。永遠のイタチごっこです。

【過ちが何かを生み出すかもしれない】

 しかし過ちが必ずしも悪いこととは限りません。ヴィルヘルム・レントゲンが真空管の実験中、偶然フィルムが感光して骨の影が映る現象に気づいてX線を発見したように、あるいはパーシー・スペンサーがレーダー用の装置の実験中、偶然ポケットの中のチョコが溶けたことから電子レンジを思いついたように、間違いを犯すAIにも間違いを犯すからこその使い道はあるのかもしれません。ひとつ思いつくのは《生成AIは芸術を生み出すかもしれない》という可能性です。

 芸術というのは、人間の感情・思想・感覚・世界観などを音や形・言葉・動きなどで表したもののうち、より多くの人々の心を揺り動かすものを言います。現在のところ生成AIは文章を書かせても絵を描かせても、非常に標準的なきちんとしたものを仕上げてきます。公文書のようなものを書かせればほぼ完璧なのですが、しかし面白くない。私が自分の文章の校正を頼んでも、表現まで直させるとトンデモなく凡庸なものに変えてきます。
 したがってそこに芸術性などといったものは皆無なのですが、生成AIが過ちを犯し続けるとしたら、いつか生身の人間にはまったく思いつかないような、特殊な過ち、特別な表現を行う可能性がないわけではありません。そこに価値があるなら、人々の共感や感動を呼び起こすなら、これまでにない芸術が生まれてくることもある、そんな気もしないわけではありません。

 さらにもうひとつの利点は、AIが過ちを犯し続ける限り、私たちは社会の主導権をAIに与えずに済むということです。

【必ず間違うから信頼できる】

 現状、政治や経済、科学といった分野で重要な仕事に携わる人の中で、生成AIの出してきた答えをファクト・チェックもせずに使うという人はまずいないでしょう。万に一つの誤りでもあっても、最も重要な場面で過ちを犯すようなAIに頼りきることはできません。ChatGPTの答えたとおりに株を売買する人もいなければ、Copilotの言う通りに馬券を買う人もいないでしょう。ましてや金正恩の思惑やウクライナ戦争の行く末を生成AIに占わせて、その答えにしたがって外交を行う官僚・政治家は出てこないはずです。
 
 ネット情報は危険だからと言ってインターネットを遮断し、精選された情報だけでAIを運営しようとすれば、それこそ歴史上の幾多の独裁者が犯してきた同じ失敗を犯すことになりかねません。自分に都合の良い情報ばかりが集められ、入力され、現実性のかけらもない判断が下されることになるからです。

 私にとってはしょっちゅう騙される面倒くさい相手ですが、AIが過ちを犯し続けるあいだは、私は自分の人生の主導権を握り、人類は歴史の主導権を握り続けることができる、と思うのです。
 (この稿、終了)