世の中は意外と公平にできている、
わが身ばかりを嘆く人には、それが見えない。
不平不満ばかり語るその人の家の門には、
小さな悪魔たちが集うようになる、
という話。
(写真:フォトAC)
【教育基本法第一条の美しさ】
法律というのは利害関係者の間で認識のずれが生まれないよう、誤解が生じないよう、ということでおそろしく具体的で網羅的なものですが、なかにはやたら抽象的で理念的で、高邁と言ってもいいようなものもあります。日本国憲法や教育基本法といった法律がそれで、
教育基本法第1条(教育の目的)
教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家および社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
といった文章を見ると胸が熱くなります。
平和とは何かとか、真理とは何かとか、言い出したらキリのないツッコミどころ満載の文ですが、その思いは伝わってきます。人間には、民族には、ひとりひとりには「ああなりたい」「こうでありたい」といった目的が必要で、教育基本法第一条はそうした目的のひとつのひな型を示しているように考えられるのです。
私は教師としても親としても、いつも心の隅でこの条文を意識して、自分が正しい方向に向かって仕事をしているか、子育てをしているかと問うたものです。そんな目から見ると、先週水曜日(2025.07.23)の朝日新聞AERAデジタル、『独身女性「私たちは持っていかれるだけ」の不公平感 渡し続けたご祝儀「50万円超」を回収できる日は?』、に登場する人々はほんとうに切なく思えるのです。
私たちはこんな子(と言っても30歳代以上、40~50歳代といった人たちですが)を育てるために高い税金を払い、学校や公園や施設を整備運営し、ときには道を譲って来たのか――、そう考えると本当に情けなくなります
【無知と無恥を晒す人々】
独身であるか既婚であるか、それ自体は幸福の指標にはなりません。独身者の中にもそれで幸せな人もいれば不幸な人もいます。既婚者もまた、結婚しているから幸せな人もいれば結婚生活そのものが重荷で苦しい人もいます。要は自分の状況をどう捉えどう対処するかで、同じ境遇であっても幸せな人もいれば不幸せな人もいる、そんなことは当たり前じゃないですか。それを、
「子どもって本来は自己責任で産むものだと思うけど、なぜ子育てになると、“社会が”とか“地域が”という文脈になるのか」
とか、
「教育費の無償化の流れを見ると、『他人の子どもの教育費をなぜ払わないといけないのか』というモヤモヤが募る」
とか、
「子ども1人を育てるのに2千万円以上かかるから子育て世帯は大変、だから社会的な支援がもっと必要だというけれど、私からすれば“それも織り込み済みで産んだのでは?”と言いたくなる」
とか、みっともないことこの上ないじゃないですか。
独身者には時間的自由もあれば経済的自由もあり、好きな時に飲んで好きな時に食べて、寝て、起きて、それでも家族から文句を言われることはありません。思い切りオシャレをしても馬鹿な遊びに興じても、それで迷惑のかかる係累はいないのです。なんと素晴らしいことか! そう言っていればいいじゃないですか。
それを、子育て支援の意味も知らず、自分が愚かさを晒していることも気づかず――
「こんな連中を育ててきたかと思うと、情けないわ!」
というのが、記事を読んだ時の私の気持ちです。それだって不平不満みたいなものですが――。
【言葉をなめてはいけない】
「そこまで本気の話ではない」という言い方もあります。「誰に迷惑をかけているわけでもない」「言えば気の済む話だ」という人もいます。しかし生き方というのはそういうものではないのです。
「もの言えば 唇寒し 秋の風」(余計なことを言えば、そのためにかえって災いを招く)
と言い、
「人を呪わば穴二つ」(他人を陥れたり、不幸にしようとすると、自分にも同じように悪いことが降りかかってくる)
とも言います。
言葉には言霊と呼ばれる霊力が宿っており、?良い言葉は良い結果を、悪い言葉は悪い結果を招きます。人を羨んだり妬んだりする言葉や行為は、幸せをつかむ握力を弱め、やがて必ずその人に災いをもたらすものです。
科学的に考えたって、否定的・消極的な言葉を重ねて前向きになるような心理的機制など、あるはずがありません。どうか口を閉ざしてください。AERAもこんなものを掘り起こさないでください。
(この稿、終了)