カイト・カフェ

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「馬を川に連れて行く日本の教育」~それでも私はいまの学校を大事にしたい② 

 運動能力は外から見えやすい、
 しかし他の能力はなかなか限界が見えて来ない。
 だからそれは試され、鍛えられ、判断されなければならない。
 日本では子どもたちが、学校を通して試される、
という話。(写真:フォトAC)

【我が子が大谷翔平でなかったことに関する思い】

 ドジャース大谷翔平選手、昨日の段階で本塁打19本。これはジャッジ選手(ヤンキース)、シュワバー選手(フィリーズ)を抜いてMLB全体で単独トップだそうです。
 大谷選手と言えばつい先日、フォーブス誌の「世界で最も稼いだアスリート」ランキングに第9位でランクインしていて、過去12か月間の推定収入は1億250万ドル(約149億円)だそうです。
 私の息子のアキュラは大谷選手より一つ年上の32歳(大谷選手は7月の誕生日が来て31歳)、やはり野球をさせておけばよかったとつくづく後悔しています――と、この話が笑い話になるのは、私の子では野球をやらせたところで大谷選手のようになれなかったことは明らかだからです。相手が大谷翔平である以上、日本人のほとんどが同じ立場でしょう。

 では日本のプロ野球選手だったら可能性はあったのか? 私たち夫婦の血筋とアキュラ自身を見ていればわかります、“ありえない”レベルです。
 甲子園に出られるくらいの強豪校のレギュラー選手――これもまず無理。
 無名弱小校のレギュラー選手――これだとまあ、目標にするにはちょうどいいくらいかもしれません。
 相撲、サッカー、ゴルフ――どれを選んでも似たようなもので、私たちの家族を知っている人で「いやそんなことはないだろう、がんばればなれたかもしれない」と言う人がいたら、逆にその人はプロスポーツというものを知らないのです。一度でもプロを意識して真剣に取り組んだ人たちに話を聞けば、10人が10人とも「プロはそんなに甘いものじゃない」と言うはずです。

 私の息子は大谷翔平にもならず高校の野球選手にもなりませんでしたが、それで何らかのしこりが残るのかというと、これがまったくないのです。アキュラは年収149億円の大リーガーになりませんでしたがそれで不幸だったわけではありません。度を越えた収入は必ずしも羨ましいものではありませんし、少なくとも職業上のパートナーに裏切られて、24億5000万円も持って行かれる可能性はないのです。

【見えやすい才能・見えにくい才能】

 スポーツの可能性は分かり易く簡単です。才能のない子は早い段階で発見され、「お宅のお子さんはこの競技に向いていません」と言われても、普通の親は傷つきませんし、いずれ本人も分かります。しかしそれ以外の分野は、なかなか才能に見切りをつけるのは難しくなります。
 芸術分野でも、プロのピアニスト、バイオリニストというレベルでは早い段階で才能を見切ることができそうですが、絵描きだのパフォーマーだのとなるといつどこで開花するのか分かりません。小説家などは40歳を過ぎてデビューした松本清張井上靖の例があるように、かなり齢まで可能性が消えません。

 そこで問題になってくるのがいわゆる学校の“勉強”です。“勉強”は一面でその子の才能や能力を伸ばそうとする作業ですが、他方で自分の才能や能力に見切りをつける作業とも言えます。例えば私は子どものころ、絵描きにもなりたかったし長距離ランナーにもなりたかったし、作家にも作曲家にもなりたかった――学校はそんな私に水彩画や版画、彫塑に触れる機会を与え、体育のマラソン大会で実力を計らせ、作文の授業や文集づくりの機会を与えてどれくらいやれるかを試させてくれました。歌を歌い楽器を演奏させ、作曲までさせてくれたのです。そしてどれもこれも一流ではないことが分かった――。

 正直を言えば、才能という点ではスポーツだって他のことだって、基本的には何ら変わらない面があると私は思っています。
 例えば国語の面で大成して、やがてノーベル文学賞を取るような人がいます。いわば文学界の大谷翔平です。そこまでいかなくても作家として順調に稼いで行ける、野球で言えばプロ野球レベルの人たちもいます。その中から長嶋や王のように歴史に名を遺す作家も出て来るでしょう。
 私のように書くこと自体を楽しみとするアマチュアも出ます。草野球に対応して草文筆といったところです。もちろん世の中には“人に見られる文章なんて絶対に書かない”“人には見せられない”という人もいるでしょう。その人はその人で、文章を書く仕事から遠ざかっていればいいのです。私がたとえ、町内会のソフトボール大会であっても、絶対にピッチャーズ・マウンドに上がらないのと同じにするだけです。

 日本ではそうした能力の分別は学校教育を通して行われます。学校教育を通して能力は試され、やってみたがダメだった、限界が見えた、ある程度やっていけそうだと分かった、本気で取り組んでいこうということになった――のです。

【馬を川に連れて行くことはできるが――】

「馬を川に連れて行くことはできるが、水を飲ませることはできない」という言葉があります。下準備をしてあげることはできるが、そのこと自体は本人がやるしかない、本人にその気がなければだめだ、という意味です。
 日本の学校教育は「馬を川に連れて行く教育」です。それもかなり強引に――。日本の教師は算数や国語の指導、絵画指導や合唱指導で、中途半端に済ませることを良しとはしません。それぞれの限界まで引き出そうとします。それはあたかも、馬を川辺のいちばん水の飲みやすい場所に連れて行くのと同じようなことです。

 昨日紹介したインタビュー記事*1に描かれたアメリカの教育は「馬に川の場所を指し示しても、連れて行こうとしない教育」と言えます。
 小学校高学年の授業はビデオを流し、
「わからないところがあったら手を挙げて質問して」
と指示するのはまさにその象徴です。質問するかしないかは本人が決めることです。むりやり子どもを川に連れて行って、
「さあ、この水、飲んでみる、どうする」
と訊くような強硬なことはしません。
(この稿、続く)