値段に見合わない薄っぺらな本を買った。
一期一会、その瞬間を大切にせよという。
こころに留めて、いつでも思い出そう。
そのために本を買ったのだから。
という話。
(写真:フォトAC)
【最後だとわかっていたなら】
Amazonで本を一冊買いました。
ノーマ コーネット マレック (著), 佐川 睦 (翻訳)「最後だとわかっていたなら」(2007/6/26 サンクチュアリ出版)
です。
これは亡くなった10歳の息子への気持ちを綴ったアメリカ人女性の詩で、9.11同時多発テロ追悼集会で朗読され、大きな反響を呼び起こしたそうです。9・11の追悼集会での詩の朗読といえば「線の風になって」が有名で、そちらの方は知っていたのですが、不勉強で「最後だと~」の方は知りませんでした。日本では東日本大震災で再び注目されたそうです。けれどそれも知らなかったのです。
詩の内容はGoogleで「最後だとわかっていたなら」を検索すれば、全文を写したブログやサイトが四つも五つも出てきますからすぐに読めます。驚いたことにサンクチュアリ出版のサイトからも全文が読めるのです。
あなたが眠りにつくのを見るのが
最後だとわかっていたら
わたしは もっとちゃんとカバーをかけて
神様にその魂を守ってくださるように祈っただろう
で始まるこの詩は、「そんなことは分かっているのに」と言いたくなる内容なのに、言葉にされると胸に突き刺さるものがあります。
【悔やむということ】
日本には葬儀の際、参列者が遺族に「お悔やみ申し上げます」と告げる風習が残っています。「最後だとわかっていたなら」によく似た感じ方ですが、たとえ最後だとわかっていいたとしても悔いが残ることを前提とした言葉です。
「死の間際まで十分な時間があって、やれることはすべてやったように思えるときでさえ悔いは残るものです。ましてや急なことではご遺族の悲しみもひとしおのことと思います。
ああしておけば、こうしておけばといった想いはきっと尽きないでしょうね。
私も私なりに故人に対してやっておくべきことがたくさんあったのに、しないまま今日、こんなことになってしまいました。そのことをこころより悔いております。ですからその悔いる気持ちを、皆様とご一緒しましょう。一緒に悔いましょう。こころよりお悔やみ申し上げます」
ともに悔やむ人が多ければ多いほど、残された人々の気持ちは和らぐ、そうした集団としての経験知が、この言葉を生み出したのだと思います。
【一期一会、今を大切に】
「最後だとわかっていたなら」は後半、こんな口調になって行きます。
そして わたしたちは 忘れないようにしたい
若い人にも 年老いた人にも
明日は誰にも約束されていないのだということを
確かにその通りです。
一期一会。その時その時を大切にしていくほかありません。
いい詩ですので是非読んでください。
――と、これで詩自体に関する話は終わります。話題にしたいことがもうひとつあるからです。
それはネット上ですぐにも探せる「最後だとわかっていたなら」を、なぜ私が紙の書籍として手元に置いたかということです。
【私が本を買ったわけ】
1,100円というけっこうな値段の本です。本文はわずか51行。二段組みでたった1ページに収まる内容を、邦文・英文並べて36ページのカラー写真に重ねて紹介しています。その写真がとても感動的なものかといえばさほどのものではありません。
そもそもひとつながりの詩を36分割してしまうのはいかがなものかとか、ページをめくるたびに感動が深まって行くわけでもないだろうとか、さまざまに批判をすることができます。ケチな私としては本の内容だけで言えば、1,100円はとてもではありませんが釣り合うものではありません。それなのに買った、出版社のサイトでいつでも見られるのに買った――理由はただひとつ。目につきやすく、取り出しやすいからです。
この詩はいつか必要になる。誰かに話す上で、あるいはブログの流れで引用したくなるときなど――。そのときネット上でこの詩をさっと探し出せるかというと、案外、厄介です。
もちろん題名を覚えておけばどうということはありません。しかし私はそういうことが苦手です。記憶力に難があるのです。「最後」だけでは検索できません。「詩集・最後」でも無理でしょう。「詩集・最後だと」なら検索できますが、私の場合は「最後」ですら思い出さない可能性があります。それだともう見つけようがありません。
WordやPDFのファイルにしてドキュメントフォルダに格納しておくという方法もありますが、題名を覚えていなければ検索できないという事情はネット検索と変わりありません。仮に格納してあるフォルダが見つかっても、100以上のファイルから所定のものを見つけるのは簡単ではありません。本と違って、パッと見、区別がつかないからです。
紙の本は簡単です。私の持っている詩集・短歌集・句集はおそらく30冊以下で、本棚1段の半分にも満ちません。文庫本以外の文学書は仕事部屋西壁の本棚に入れてあって、詩集の場所は右の下から2段目です。今回買った「最後だとわかっていたなら」は一般書籍や小説に多い四六判より高さが1cmほど低く、幅(奥行き)が1cmほど長い変形判ですが、何と言っても厚さが1.5cmしかなく、明らかに薄っぺらです。ですから仕事部屋に行って本棚の前でしゃがむと、一瞬で見つかるのです。行けば必ずそこにあるという安心感のために支払う1,100円は惜しくありません。
本を棚から抜いてコンピュータの横におけば、もう探す必要もなくなります。そこに置いてある限りは、いつでも手に取ることができるからです。
もうひとつ、紙の本の良さは本棚の前に立つたびに視野の隅に入って来るということです。私くらいの年齢になると、買ったこと、それが存在することすら忘れてしまった書籍や知識というものがたくさん出てきます。30年前に読んだ本について、「ああ、そういえばこういう本があった」と思い出させることは、コンピュータにはなかなかできることではないように思います。
(この稿、続く)