およそ三年半のコロナ禍を経て、私たちは多くのものを棄てた。
棄ててようやく学んだ。
生きていく上で必要なものはほとんどない、
なくしても誰も困らない、むしろ楽なくらいだと、
という話。
(写真:フォトAC)
【社会関係のスリム化、巨大な社会実験】
東日本大震災が残した教訓が「人の命は儚い」と「ひとはひとりでは生きていけない」だったのに対して、コロナ禍が残したものは「生きていく上でほんとうに必要なことはあまりない」「ひとはひとりでも生きていける」ということでした。いま自分の周辺に存在するものの大部分は、なくても、とりあえず誰も困らない、むしろ楽なくらいだと。
日本で一例目の患者が出た2020年1月からWHOが緊急事態宣言の終了を発表した2023年5月までの約3年半は、新型コロナウイルスとの戦いの日々であるとともに見方を変えると、「人間はこれまで築き上げてきた文明を、どこまで削ぎ落すことができるのか」
といった壮大な社会実験だったとも言えます。
まずやり玉に挙がったのが飲食・娯楽関係でした。もちろん飲み食いしなければ人間は生きていけませんが、それが外食である必要はありません。自炊をすれば安上がりですし、現代は中食(なかしょく)と呼ばれるスーパーやコンビニ、専門店の弁当やデリバリーもありますから、食堂・レストランはなくてもかまわないのです。
「飲(アルコール)」の方は外飲み(そとのみ)が好きな人は好きですが、感染症対策という点では最悪で、それまで義理で付き合っていた人も少なからずいましたから、なくすのは簡単でした。
娯楽も、生きていく上での必須ではないので、削減の対象にはなり易いものでした。もっとも現代ではデジタル・ゲームや動画配信、音楽やネットによるスポーツ観戦な、室内遊びも充実していますから、パチンコやコンサートなどから切り替えた人も少なくなかったように思います。
【企業や学校の活動も変わる】
企業活動も大きな影響を受けました。飲食・娯楽関係企業はダメ、情報通信・フードデリバリー・宅配サービスは好調だのといった職種による差も大きかったのですが、分業と協働の「協働」の部分が感染対策上きわめて厳しく、リモートワークはあっという間に広がって行きます。
満員電車で通勤せずに済むというのは感染対策上きわめて有効で、それと同時に社員にとっては時間とエネルギーの節約、企業にとっては通勤費の節約というメリットもありました。1年、2年とコロナ禍が長引くと、社員のほとんど出社しない企業は「会社」という物理的スペースが節約できることに気づきます。
リモートワークだのオフィスを構えないフルリモートだのといった働き方の概念は昔からあったものですが、踏み切るにはコロナ禍のようなインパクトが必要でした。
学校でもリモート学習の可能性は探られましたが、2020年春の段階ではまだ機器もノウハウも十分ではありませんでした。したがって学校が、地方も含めて丸ごと休校になるなどありえないと思っていたのですが、ダイヤモンド・プリンセスが横浜港に戻ってきた2020年2月3日から一カ月にも満たない2月27日、当時の安倍首相が全国の小中高へ臨時休校を要請。卒業式も入学式も軒並みなくなってしまいました。そのままだと真円度が始まっても各学年の年間授業時数が確保できない――。
まさに学校教育の存続に関わる状況で、とにかく休校が解けて学校に来られる間は早目早目に授業を進め、指導要領に定められた時数だけはやり確保したい、そのためにはありとあらゆる行事は中止ないしは延期・縮小して、いつ再び、あるいは三たび・四たび、休校が訪れても大丈夫なようにしておこうと、そんな目標で毎日を過ごすようになったのです。
運動会はなし、文化祭もなし、修学旅行もなし。クリスマスも豆まきもなし。音楽の授業で歌うこともなく、体育の授業で声を掛け合うこともない。給食は前を向いて黙々と食べ、清掃もそこそこにできるだけ早く帰宅する――寂しいと言えば寂しいですが、それで何が困ったかというと、とりあえず誰も困らない、むしろ楽なくらいでした。
【誰も困らない、むしろ楽なくらい】
その「とりあえず誰も困らない、むしろ楽なくらい」という現象はあちこちで確認されるようになります。学校関連ではPTAのバザーや資源回収、環境整備といった諸活動が中止になる。中止になっても「誰も困らない、むしろ楽なくらい」。
会社では新入社員の歓迎会を始めとする飲み会がなくなり、会社帰りに上司から誘われることもなくなります。なくなっても「誰も困らない、むしろ楽なくらい」。
家に帰っては、地域の祭りもなくなり、区民運動会も区民旅行もなくなる。敬老行事も子ども会もない。それでもしかし「誰も困らない、むしろ楽なくらい」
2020年の春に計画されていた結婚式は軒並み秋に延期されましたが、7月末から始まった感染第2波はとてつもなく大きなもので再延期。年を越せば何とかなるかもしれないと2月~3月の寒い時期に設定するも第3波でまた延期。結局、最小の家族だけで挙式をするか、年単位での延期に踏み切るか、そもそも式自体を諦めるか、そういう話になってします。
地味婚だとかミニマニーだとかマイクロウェディングだとかいった「小さな結婚式」が話題になりましたが、やがて最初から式を予定しないカップルも増え、カップルにすらならない人たちも多くなってきました。
弔事においても「家族葬」という名がすっかり定着し、弔問は受け付けるが葬儀および精進落としは親族のみで行うという形式が定まった感があります。
「弔問客がさえいなければ葬儀の質もかなり落とせるし、精進落としの節約分だけで葬儀費用全体が賄えるかもしれない」
――そこまで卑しくならないにしても、他人がいなければ気分的にも楽なことは楽です。
親族も、つい5~6年前までは一族郎党総集合だったのが、コロナ以降は「各家庭代表一名」といった感じになっています。
「とりあえず誰も困らない、むしろ楽なくらい」
【私たちはひとりで生きていられる】
この正月、あまりにたくさんの「年賀状じまい」を受け取ってだいぶアタフタしましたが、考えてみればあれも「生きていく上でほんとうに必要なことはあまりない」と考えて整理したのだと思えば、大した問題ではないということになります。実際に長く会っていない人とは、この際、お別れしましょう。
「とりあえず誰も困らない、むしろ楽なくらい」
人々はPTAを解散させ労働組合を終わらせ、職場の人間関係からも身を引き始めました、町内会を脱会し親戚関係も小さく整理し始めています。これからの日本人はそうした古い人間関係にも悩まされずに済むのです。なぜならそれらが動いていなかった3年半の間、とりあえず誰も困らなかった、むしろ楽なくらいだったからです。
(この稿、次回終了)