この国では《気持ち》は主張するものでなく《読む》ものだ。
他人に迷惑をかけてはいけない社会で、
心の読み方を身につけていないと、
人は生き生きと生きていけない、
という話。
(写真:フォトAC)
【《気持ち》は主張するものでなく《読む》もの】
3月号の月刊「文芸春秋」の巻頭随筆で作家・数学者の藤原正彦が、あるジャーナリストの書いたものの中にこんな話があったと紹介していました。
「アメリカでは人物評価において次のことが重視される。(一)瞬発力がある(二)論理的に話せる(三)ユニークさがある(四)ネアカでユーモアセンスがある、の四つである」。
三年間アメリカに住んだ経験のある藤原も「そんなものと思う」と記していますが、同じアングロサクソンでも英国は少し違っているようで、
「瞬発力を発揮してまくし立てるような者は『軽薄』とか『品がない』ととられる」
また、論理性にしても、
「論理をふりかざし主張するのは『フランス人のすること』と敬遠される」
のだそうです。アメリカにもイギリスにもフランスにも行ったことがない私としては、黙って引き下がるしかありません。
ただアメリカではネアカが重視されるという話はALTから聞いたことがありますし、瞬発力についても、アメリカ映画を観ていて何かを決めるときの速さにはいつも驚かされます。
レストランでメニューを見ながらあれこれいつまでも迷うというのはいかにもアメリカ的ではなく、席についたらその瞬間に、
「ボクは◯◯。キミは何にする?」
「私は△△がいいワ」
とならなくてはいけません。メニューを広げて迷っても三秒以内で、あとは会話の続きを進める、それがアメリカ人です。あくまでも私の持つ印象ですが。
【日本教の最重要課題《二戒》】
日本人は違います。日本の男の子はレストランで席に着いたら、まず、
「何にする?」
と聞きます。あるいは「何にしようか」です。
一見、主体性がないようにも見えますし、実際に主体性の問題もあるのですが、たいていは互いのために間を取ってしばらく迷う時間をつくる、という手続きなのです。女の子に限らず日本人の場合は、相手から「ボクは◯◯にする。キミは?」といきなり詰め寄られるのは困るのです。日ごろからそんな訓練は受けていませんから。
日本人が子どものころから受けている訓練は、まず、
「ひとに迷惑をかけてはいけません」
です。もうひとつは、
「(ひとの・相手の)気持ちを考えなさい」
「早くしなさい」とか「落ち着いてやりなさい」とかもありますが、子どもによっては必要のない場合もありますから、ほとんどが共通に受けている指導といったら上記のふたつになります。しかもふたつには「もうこれ以上は必要ない」といった天井がありませんから、どんな子も繰り返し、繰り返し、いつまでも聞かされます。
山本七平の「日本人とユダヤ人」になぞらえれば、それこそが「日本教」の核心で、先のふたつは最大の戒め、「十戒」ならぬ「二戒」なのです。ふたつしかありませんから厳しく、徹底も求められます。
【《心》の道場、修練場】
ただこれを守ることはそう簡単な話ではありません。
《心の理論》では、
「自分以外の人間にも自分と同じような心の状態、目的、意図、知識、信念、志向、疑念、推測などがあることを知り、そのはたらきを理解し、その理解に基づいて他人の行動を予測する」
まさにその能力こそが《心》ですから、日本社会では頭を働かせるよりもまず《心》の働きを全開にし、耳を澄ませるように《心》を澄ませなくてなりません。そしてその都度、状況や相手に応じて適切な行動をとらなくてはならないのです。
相手の《心》に配慮し、言葉で表現されない《心》の声に反応する、そんな高度な観念社会を、日本人はどうやって作り上げたのか――。
これは推測でしかありませんが、狭い島国の、何万とある山間の小さな集落で、互いに言いたいことを言ったらすぐにも崩壊しかねない集団を何とか守っていくために、みんなで耐えた、耐えながら互いの思惑を常に慮り、自分の意見を出す時期や出し方、意思の実現の仕方などについて、思案し続けた結果ではないのかと思うのです。
子どもも江戸時代くらいまでは村の鎮守の森や寺子屋で、近代にいたっては商店街や村の集落の半径50m以内の“世界”で、年長者や友達に怒られたり叱られたり、意地悪をされたり叩かれたりしながら、泣きながら覚えて来たとしか思えません。
現在でも子どもは、小学校の低中学年くらいまでまるでヤンチャで口性がありません。しかし高学年から中学生になる辺りではさすがに学び、自分が思ったことをそのまま口にしたり行動に出したりすることは集団の和を乱すものだということや、そうすることは他者にとって迷惑だということや、つまり日本教の“二戒”に反することだと理解するのです。
そこで「ひとの迷惑にならないよう」「人の気持ちを考える」ために、一斉に《心》の《読み》に入ります。
小学校や中学校以上の教室で子どもがなかなか発言してくれないと先生たちは嘆きますが、その先生たち、職員会議で丁々発止の意見交換ができていますか? 「ウチの職員会議は低調だ」と嘆く校長先生、校長会では激しい意見の応酬に苦労していたりするでしょうか?
この国では誰も何も言わない。しかしだからと言って何も考えていないわけではありません。何も言わずに目を閉じながら、普通は《心》が激しい勢いで《読み》行っているのです。
【子どもたちは練習しなくなった】
しかし今の子どもたちは《読み》には入るものの、何をどう読んだらいいのかといった技術を、十分に持っていないのかもしれません。年齢相応の経験が、不足しているように思うのです。
鎮守の森や商店街にあった地域子ども社会は少子化と親の車移動によって崩壊し、保育園や小学校も人間関係の学びの場ではなくなっています。
「子どもの喧嘩に大人は口を出すな」という不文律も、いじめが社会問題となる中で蔑ろにされるようになってきました。特に学校には、子ども同士のトラブルに間髪を入れず教師が介入し、解決することが期待されています。そうしなければ禍根を残します。不審者対策の意味も含めて、子どもたちは休み時間もゆるやかに監視され、トラブルから守られるようになっています。そして、
「人に迷惑をかけてはいけません」
「人の気持ちを考えなさい」
という戒律だけが残っています。問題を解決しながら学ぶという経験もさせてもらえないままに。
【よみの国の亡者たち】
けれどそれだけでは何も分かりませんよね。美人は美人だというだけで誰かを傷つけているのかもしれませんし、自慢するつもりはなくても勉強のできる子は苦手な子を圧迫しています。
自分の悩みをひとにしゃべることだって、もしかしたらその人の時間を奪い、心の平安をかき乱す迷惑な行為になるのかも知れない――そう考えたらやはり相談はできない、そんなふうに考える子どもも多く生まれてきます。読み方を知らない彼らは、《よみ(読み)の国》では生き生きと生きられない亡者みたいなものです。
経験によって、
「自分の悩みをひとにしゃべることは、誰かのために役立ちたいという人間の気持ちに応えるもので、相手の自己効力感や有能感、場合によっては優越感にもかなうものである。だから打ち明けてもいい、相談することが相手に役立つこともある」
とか、
「こちらが先に悩みを打ち明けて相手の時間を奪い、心の平安を乱したら、相手が苦しい時にいたって相談しやすいじゃないか。だから迷惑をかけておけ」
とか、そういうことを学んでおけば、あんな苦しい思いをしなくて済んだのに、安否確認アプリなんか必要なかったのにと、ただそれだけのことなのです。
たったそれぽっちのことが今は難しい――。
(この稿、終了)