カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「当為に翻弄される学校、ネバーランドの選手を追う」~当為と存在、ロマンチズムとリアリズム②

 「こうあるべきだ」はすぐに「こうあるはずだ」に翻訳される。
 しかし現実は必ずしもそうはならない。そして人々は落胆して叫ぶ。
 「ほら見なさい。ネバーランドの選手は、
  あんなに前を走っているじゃないか!」、
という話。(写真:フォトAC)

【「かくあるべきこと」に翻弄される学校】

「当為(とうい)」と「存在」。別の言い方をすると「かくあるべきこと」と「かくあること」。その間で常に翻弄されてきたのが学校です。
 
 教員の働き方改革が喫緊の課題となって以来、学校批判の論調はずいぶん柔らかくなってきていますが、時計を20年ほど戻して平成の最初の20年間(いわゆる失われた20年)を思い出すと、ほんとうに教師であることが鬼畜であるかのように言われた時期もあったのです。
 
 1995年(平成7年)の春、私は当時住んでいた地方都市の公民館で開かれたある集会に参加していました。それは前の年(1994年)の11月に起こった、いわゆる「大河内清輝君いじめ自殺事件」に関わるもので、たぶん「いじめ問題を考える集会」みたいな名前だったと思います。
 さまざまな人々の意見交換を目的とした集会だったはずですが、始まってみると最初から殺気だった雰囲気で、やがて「子ども相手の楽な仕事なのにいじめひとつ解決できないで学校」と「公務員の地位に安穏と居座る無能で怠惰な教員」を、徹底的に糾弾する会に移って行ったのです。
 途中で激昂した参加者のひとりが、「こういう大事な集会にも、教師なんか一人も来ていない。いるものなら名乗って見ろ。みんな出世の妨げになるのが怖くて、黙ってうちに隠れてるんだ」みたいなことを言うので、私もムキになって手を上げかけたのですが、さすがに理解してもらえる雰囲気ではなかったので、黙ってすごすごと引き下がってきました。
 
 当時すでに「近頃のいじめは陰湿になって――」という言い方があって「だから発見できないと教師はふざけたことを言うが――」という文脈に結び付くのですが、私に言わせると教師たちが必死で介入してジャイアン型(単独・暴力・公開)のいじめをなくしたので、いじめっ子たちは地下に潜った――つまり陰湿になったわけで、いじめ問題はあちらを押さえればこちらが飛び出てくるような、一筋縄ではいかない複雑な構造を持っているのです。しかしそうした事実を受け入れられるだけの余裕が、当時の社会にはありませんでした。
「失われた20年」――大人もまた、社会からいじめられていたからかもしれません。

【当為の世界で、人は見たいように世界を見る】

 当時、世の中の多くの人々は、「教師がかつての金八先生のように誠意を尽くして語り掛ければ、子どもは必ず理解していじめをやめる」と思っていました。それは本来「かくべきであること」、つまり「当為」であって、存在(かくあること)とは違います。しかし「かくあるべきこと」はすぐに「こうであるに違いない」「こうであるはず」に転換されてしまう性質があります。
 したがって問題は単純に、「いじめをなくすにはそうしたらよいのか」ではなく、「学校の先生の言うことなら子どもは『ハイ』『ハイ』と素直に聞くはずなのに、それでもいじめがなくならないのはなぜか?」と叙述されるようになります。そして答えは限られてきます。
 教師が「いじめはダメだ」と言っていないか、少なくとも子どもの心に響くような言い方ができていないのです。怠慢なのか能力がないのか分かりませんが、それ以外の答えを見つけることはできません。当時の雑誌の記事のサブタイトルに、こんなのがありました。
「先生! いじめは悪いことだと、子どもたちに言ってください!」

 あのころの大人たちでも、自分が子どもだったときに先生の言うことを何でも「はい」「はい」と聞いていたわけではないと思いますし、同級生には厄介な連中もいくらでもいたはずです。さらに言えば今の我が子、我が孫を見て、「この子は学校では先生の言うことを何でも『はい』『はい』と聞いているだろう」と思えるような子を育てた例は稀だと思います。けれど多くのおとなたちは自分の子どもには手を焼いても、学校の子どもは先生の言うことを何でもきくと信じ込んでいましたから、それができない教師の無能とやる気のなさを激しくなじり、教員の養成制度や管理制度の改革を要求したのです。

【歴史的なほど優秀な教員もバカに見える】

 いじめがなくならないのも不登校が減らないのも、学力の国際比較で順位が下がったのも、みんな教員の質が低いか、自覚が足りないからです。
 亡くなった安倍元総理は2006年、第一次内閣の閣議で「教育再生会議」を発足させました。何の調査もなしにいきなり「日本の教育は死んだ(だから再生しなくてはならない)」と断じたこの名称が、どれほど多くの教員を傷つけ、意欲を削いだかしれません。しかも2006年(平成18)の小学校教員採用試験の倍率は4.2倍(2023年の現在は2.3倍)もあったのです。さらにそのわずか6年前の2000年(平成12)の倍率は全国平均で12.5倍、自治体によっては27倍といったとんでもない難しさで、今では信じられないほど優秀な人材が続々と学校に集まっていたのです。ただしそれでも「かくあるべき」教員のレベルと対照すると、全くの無能みたいなものだったわけです。
 教員が毎年自己評価をした上で目標を立て校長の指導を受けたり、児童生徒・保護者からの評価を受ける教員評価制度や、今はなくなりましたが10年ごとに研修を受けて免許を更新する教員免許更新制度が始まったのも同じころです。多忙化の原因のごく、ごく一部です。
 困ったことに、平成の前中期に採用された教員は異常に優秀でしたので、その程度の負荷をかけても潰れませんでした。教員以外の職についたかつての同級生の惨状を見れば、石にかじりついても耐えるしかなかったとも言えます。

ネバーランドの選手を追う】

 現在の日本の教育が間違っている、遅れている、絶望的であると主張する人たちがどれだけ「当為」と「存在」を混同し、ロマンチックな学校批判・教育批判を繰り返しているのかを、簡単に見分ける方法があります。それはひとこと、こう問えばいいのです。
「日本の教育がいかにダメかはよく分かった。ところで、それでは一体、私たちはどこの国(または地域)の教育を手本として、どちらの方向に向かって行けばいいのか?」
 私はこの問いにきちんと答えてくれた人をひとりも知りません。当然です。遠くに英・米・仏といった欧米諸国の背中が見え、追い付け追い越せと頑張った昔とは異なり、、首位に立ってしまったマラソン・ランナーに追いかけるべき目標はないのです。

 それなのに一部の人々は“遅れている”“ダメだ”と言う。その根拠は何か。
 ――それは彼らが「当為」という幻のランナーを前に置いているからです。いわばネバーランドからきた選手です。
 42.195kmをわずか1時間半で走るという幻の選手を、本気で追いかけたらいったい何が起こるのか(実際に日本はそれを始めてしまった)――ほんとうは今日、その話をしたかったのですが、相変わらずの冗長さで時間も紙面もなくなりました。この件は別の時に考えましょう。