カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「何を考えてもいい、何を言ってもいい、賛同者は必ずいる」~ネットが世界を狂わせる④

 どんな意見にも万単位の支持者がいる、
 それがネット社会だ。
 その支持者に支えられて、人々の要求も変化してきた。
 唖然とするような内容が平然と語られる時代、
という話。(写真:フォトAC)

【何を考えてもいい、何を言ってもいい、賛同者は必ずいる】

 昨日は「インターネットの誕生日が昨日でした」という寄り道で終わってしまいましたが、今週私がウダウダと考えていたのは、

  1.  ある特定の場所で少数派であっても全国、あるいは全世界的にみると数としては少数ではない場合がある。かつて紅白歌合戦に選ばれないような歌手は「売れていない歌手」だったが、今は数万人規模のコンサートを開いている者もいる。

  2.  どんな突飛な考え方でも、それ支持する人が相当数いると信じることができる。ドナルド・トランプを救世主と考える「Qアノン」はアメリカを中心に数十万人いると言われ、地球が球体ではないと信じる人々――いわゆる「フラットアーサー」もアメリカを中心に数十万人から数百万人いるとされている。

  3. 反ワクチンはさらに大きく、日本国内でも約1割の人々がワクチン接種に懐疑的だと言われている。日本の成人人口は約1億人。したがって1000万人もの人々がワクチンに疑いの目を向けているのだ。そうした人々の声を無視した河野太郎氏は「人殺し」呼ばわりされても仕方がない――そう考える人たちは多い。ただしこの説明では”懐疑的ではない9000万人”の意志は無視されている。

  4. SNS上では支持も否定も大規模に行われる。例えば「教師の指導が丁寧でしつこすぎる」と言っても「教師は無関心で何もしてれくれない」と言っても、ともに支持する意見を大量に集めることができる。したがって人々は地域では異端であるような意見・考えも、ひるまず堂々と主張することができる。

といった話です。

 私は元教師ですので学校になぞらえて考えると、
「ウチは共稼ぎで忙しく、宿題を見てやることができないから宿題を出さないでほしい」
「ウチの子だけが宿題の出ないのは可哀そうなので、クラス全体で出さないようにしてほしい」
「運動会と姪の結婚式の日程が重なった。運動会を翌週に変更してもらえないか」
「給食に魚の日が多すぎる。うちの子は魚が苦手なので、もっと一人ひとりにあったメニューを考えてほしい」
 もちろんナマの言葉で書けば炎上必至の内容とも言えますが、ちょっと表現を変えるだけで全国から賛同や賞賛の声が集まってきます。それを持って、あるいはそれに背中を押されて、人々は学校へ出かけます。

 こうした傾向に文科省もマスメディアもお墨付きを与え、支持します。
「一律ではない、児童生徒の個々のニーズに合った教育」
「一人ひとりの個性を大切にした教育」
「多様性を重視する教育」
「その子の特性に合わせた教育」
・・・etc。

【老兵は喚く】

 しかし一方で、これだけ「ニーズ」「個性」「多様性」が叫ばれている時代に、教育に関する方針を頑固に変えない古い人間もいます。

 彼らはこう考えます。
「個々のニーズ? 多様性を重視する教育? 冗談じゃアないぜ!
 憲法の第二十六条に、
『すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する』
と書いてあるんだぞ、『ひとしく』だぞ。能力以外の理由で、一人ひとりに違った教育ができるようになったら、何が起こるか分からんだろ。

『お前のウチからは、”この子は大学にやるつもりもないし本人もその気がないから、宿題は出さないでくれ”と言われてる。だから出さない』
 それでいいのか?
 魚が苦手だから魚を食べないことが許されるなら、野菜だのキノコだの、教室でバンバン捨てられていく。『ひとしく』だからひとりに許したことは全員に許さなくてはいけない。一部だけに許したらそれこそ『エコヒイキ』の大合唱だ!
 学校で好きなものしか食べなくなった子どもたちの、栄養補給は家庭に任されるようになる。子どもが学校で何を食べ、何を捨てているのかを常に把握し、毎日三食の合計で栄養やカロリーが摂れるように家庭が配慮する、
 それでいいのか? できるか? 日本の家庭はそこまで能力が高いのか?

 もっと言えば憲法第十四条には、
『すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない』
とある。病気や障害なら別だが、魚の嫌いな子には魚を出さないとか、算数の苦手な子には九九を覚えさせないとか、そんな配慮は差別と一緒だろ。本人や家族が望めば、どんな不平等な状況も許容されるとしたら、あれもこれも本人や親の望んだことにすればいい。

 だいたい教育なんて基本法第一条にあるように、
「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」
と、型にはまった人間に育てるのが目的だ。

 新聞も読まずテレビのニュースも見ず、闇バイトの噂も耳にせず、日給15万円の異常さも分からなければ強盗殺人の重さにも勘が働かない、「ホワイト案件」と言われればホワイトだと信じて殺人に関与し、22歳で生涯を棒に振る

 そんな人間を育ててはいけない、少なくとも学校はそんな人間にならないよう全力を尽くすべきと思うが、児童生徒・保護者にそういうニーズがなければ放置してよいのか。
 その子の個性が社会に対する自分自身の処し方、自分の守り方を学びたいと望まなければ、その意志は尊重しなくてはいけないのか、多様性の時代にそうした愚か者が出て来るのも、やむを得ないと諦めるべきなのか。
 違うだろ!」

【恐竜は考えた(The dinosaur thought)】

 もちろん私もそうした頑固者のひとりで、子どもたちが幸せな人生を送るためには、望むと望まないとに関わらず、身につけなければならない能力や態度がたくさんある、それもかなりある、あまりにも多いので小中学校の内は個性を伸ばしている余裕がないほどだとも考えています。
 それに個性というのは手の中の卵のように、割れないように、大切にするものではなく、叩いて鍛えなくてはならないものだと信じているのです。金八先生ふうに言えば、
「個性の”個”はですね、髑髏の硬さの象形文字である”古”を、クニガマエで囲ってさらに固めたほどの硬さを持ったもので、”イ(ニンベン)”の示すもの、つまり”人間”の中にあるものです。”性”はそうした人間(イ)の”生”き方を言う。生半可に持てるものてはないんでス!」
 古今東西、甘やかされた個性で歴史に名を遺した偉人・英雄は一人もいません。だから甘くはできない。
 しかし――、

 私は今、巨大隕石が落ちてくるのをじっと眺めている恐竜の気分で思うのです。
「もうすぐ私たちの時代は終わる。教育が格差を縮め、最低水準を保証する時代は終わり、学校が子どもと保護者のニーズや多様性に応え、子どもたちをバラバラに撃ち放つ散弾銃の役目を果たす日が来る。玉の一粒一粒がどれだけ高く、どれだけ遠くへ飛ぶかは、学校や教師ではなく、本人と家庭の教育力が決める時代が訪れるのだ」

 とりあえず私の家は大丈夫でしょう。娘の夫は教師ですし、息子の妻も教員の娘です。孫の代までは正しい教育が行われそうです。子どもが幼いからと言って甘くするような人たちではありません。だから私も安心して滅びて行けるというものです。
(この稿、終了)
(画像:Copilot《5回の修正をかけて6回目に描いた絵》)