文明社会は人間を甘やかし、
自分の労苦は誰かが代行すべきだと信じる人間を次々と生み出す。
だが社会はその要求には応えきれない。そして気がつくと、
私たちはひとりで戦わなくてはならない世界をつくってしまったのだ、
という話。
(写真:フォトAC)
【“瞬間湯沸かし器”革命】
世の中や人間を考えるとき指標としていることのひとつは、若いころ講演会で聞いた次のような話です。
「文明というのはもともと人間がやって来たこと機械や制度や他人にやってもらうことだ。だから文明人は必ず依存的になる。つまり幼児化するのである」
私にとっての文明開化(=劇的な生活の変化)となると、一人暮らしを始めてから数年後の“瞬間湯沸かし器”の導入、そしてさらに10年以上経ってからの“電子レンジの”の購入です。
“電子レンジ”はともかく、“瞬間湯沸かし器”の方はすでに知らない人もいるかもしれないので簡単に説明すると、多くは台所のシンクの上にあと付で設置したガス器具で、読んで字のごとく、スイッチひとつですぐに湯を沸かしてくれる装置です。
それがどう生活を変えたかというと、日常的に蛇口からお湯が出る生活に慣れた現代人には分からないだろうし、親がかりで暮らしている子どもにも分からないことだと思うのですが、特に冬場、食器を洗ったり手を洗ったりするのに何のためらいも準備も要らなくなった、ということです。 “瞬間湯沸かし器”が登場する以前は皿洗いもヤカンで湯を沸かし、その湯とスポンジで食器に洗剤を広げ、あとは冷たい水道水で洗い流すのが当たり前でした(私が子どものころは、その水道ですら室内になかった)。けれどそれでは手を、冷たい水から完全に守るということはできません。
唱歌「母さんの歌」の3番には、
「母さんのあかぎれ痛い、生みそをすりこむ」
という部分がありますが、もはや現代人は「あかぎれ」が何かも分からないでしょう。生みそをどうしてすりこむのかも知りません(生みそについては私も知らない)。昔の人は米を研ぐにも食器を洗うにも、洗濯をするにもすべて冷水で行いましたから冬は皮膚がボロボロだったのです。もちろんコンジョウナシの私はそんなことには耐えられませんから、独身時代、冬はほとんど外食でした。
それが“瞬間湯沸かし器”の導入ひとつで、解決してしまったのです。
もうひとつの“電子レンジ”の方は言うまでもありません。現在の生活から電子レンジがなくなったら何が困るのか――想像するのはそれほど難しくないでしょう。前の晩につくった料理を朝、温め直して食べると言ったこと、昔もできなかったわけではありませんが今ほど簡単ではありませんでした。もう電子レンジのない時代には戻れません。
もうひとつ生活を大きく変えたと言えばコンピュータの導入ということになりますが、必ずしも良いことばかりではありませんでした。コンピュータがあるおかげで増えた仕事も多いからです。
【母たちの三種の神器】
私たちの親世代の“生活を根本から変えた三種の神器”と言えば、洗濯機、冷蔵庫、炊飯器でした。私はかろうじてこれら三つの機器がなかった時代の生活の具体的な姿を観ていますが、今の人たちにはまったく想像のつかない世界でしょう。
朝は6時前からご飯を炊き始め(炊飯はたいへんな労働)、午前中にタライと洗濯板と洗濯物をもって川で洗濯、夏は買い物に毎日行って、買ったものは翌朝までに食べきる、昼食は冷や飯。そう考えると、「文明というのはもともと人間がやって来たことを、機械や制度や他人にやってもらうこと」という説明はとてもよく理解できるところです。そして、
「したがって文明人は必ず依存的になる。つまり幼児化する」
というのも分かります。
【文明人の現在地点】
これを手に入れれば劇的に生活がよくなる、楽になるといった商品は、携帯電話を最後にもう30年近くも出ていないような気がします。薄型の大型テレビが出現し、屋根にソーラーパネルが上がり、ハイブリッド車も電気自動車も出てきましたが、それはせいぜい「生活の改良・改善」ではあって「革命」ではありませんでした。この間の革命はむしろ制度的な面で行われました。
核家族化がさらに進み、三世代同居家族はもはや絶滅危惧種となりつつあります。それは私たち老人の死に場所が、家庭から病院や施設に移りつつあることからも分かります。
コロナ禍を経て在宅ワークが中心となってくると企業や組織に対する帰属意識も変わってきます。本当に優秀だったり優秀だと勘違いしたりしている人たちは、いつでも職場を離れられるよう中腰で仕事をしています。社内に友人を持つこともしません。
労働組合、PTA、町内会は今や「社会三悪」で、おそらくこの順番で滅びていくのでしょう。もともとは自分たちや自分たちの子どもを守る組織でしたが、文明人にとっては働くこと自体が非文明、反文化的なのです。利益は保障されるべきですが、そのために努力することは野蛮人のすることです。文明人はしてはいけません。生活のための努力というのは本来、自分以外の誰かが、あるいは何かがやるべきで、やってもらえないとしたら社会の方が間違っているのです――それが文明人の現在地点です。
【新たな野蛮人の世界】
さて、いよいよ衆議院選が始まります。
各党は「消費税を廃止します」「面倒くさいインボイスもやめます」「社会福祉を充実させます」「教育は無償とします」等々、わずか支出もしくはゼロ負担で膨大な利益を保証すると声高に叫んでいます。税負担を減らしてサービスを向上させるなどできる話ではなく、見えにくいところの予算を減らして、見えやすいところに回すだけの話ですが、文明人は容易に信じてしまいます。愚かだからではなく、人間はおいしい話が好きなのです。
ゴミステーションの清掃は地域住民のボランティアではなく行政ですべきだ――もちろんその通りで実現してもいいのですが、そのとき人を奪われた市道の植栽は、万年雑草だらけになっているかもしれません。
PTAの力に頼るのではなく、学校の草取りは公費ですべきだ――もちろんその通りです。しかし除草を業者に任せるといつの間にか暖房費や冷房費が減らされ、子どもたちが凍えたり熱中症の危険にさらされたりすることになります。翌年光熱費の増額を要求すると、運動会の校庭が雑草だらけになるか、Pの抜けた元PTA、つまりTA(Teacher Association)が死ぬほど働かされるかどちらかです。もっともPTAがなければあれこれ要求する主体も一つ減りますから、その方が教委は楽、という面もあるのかもしれません。
村のしがらみをなくし、家族の束縛を逃れ、職場や地域の制約からも自由になって、子どもを通した関係からも自由になる、そういった社会がいま実現しようとしています。独りぼっち、あるいは社会から孤立した家族になっても、文明社会ですから誰かが助けてくれるはずです。ひとか機械か何らかの制度が、苦労や苦痛を背負ってくれるのが道理――と思っているうちに、周りを見渡して御覧なさい。ひともお金も無尽蔵ではないのです。すべてを切り捨ててしまった私たちは、もしかしたら自らの力だけで、自分と自分の家族を守らなくてはならない自己責任の時代、野蛮人の世界に戻ってしまったのかもしれません。
私は大丈夫ですが。