育つべきものが育っていないと理解できない世界がある。
それを知るためには経験が必要だが、
もし実体験として得られないとしたら、読書に頼るしかない。
そのことを紫式部も大石静も知っていた。
という話。
(写真:フォトAC)
【脚本家・大石静の独創性】
これまでのところの「光る君へ」の脚本家の独創性――普通の人には思いつかないこと、思いついてもすぐに手放してしまうことは、三つあります。
ひとつは藤原道長と紫式部の子どものころからの関係と恋愛、不義の子を産んだこと。
二つ目は源氏物語の桐壺帝と桐壺更衣のモデルが一条天皇と中宮定子だとはっきり定めてしまったこと。
第三に、そのために「源氏物語は紫式部が夫の死後、1001年ごろから書き始め、次第に知られるようになった」という定説を覆して、道長の願いによって1006年ごろ、宮中に出仕する直前から書き始めたことにしたこと。そのため別に、1001年ごろから書き始めた架空の物語を置いたこと。
そしておそらくこれから展開していく第四の独創は、子どもだった中宮彰子が「源氏物語」を読むことで、大人の世界、男女の機微、情操を学んでいくというものです(たぶんそうなる)。
【育つべきものが育っていないと小説は分からない】
ドラマの中で、「源氏物語」は一条天皇を中宮彰子の住む藤壺に引き寄せるための道具として書かれ始めたことになっています。その計画は成功し帝は複雑な気持ちを抱えながらも源氏物語を評価し、宮中に行きわたるように指示を出しています。
やがて源氏物語はさまざまな人の読むところとなり、先日もお話しした通り、登場人物と比較して自分の方がまだマシだと微笑む人や、光の君のモデルは自分の父親ではないかと疑う者、いやオレだろうと言い出す者、さまざまな反応を引き起こします。
その中にあって、
「何が面白いのか分からない」
という人も出てきます。中宮彰子です。
もちろん教養という点では十分な学習をしてきているはずですから文章が読めないわけではない。和歌も理解できる。作ることもできる。しかしそれでも「源氏物語」の面白さが分からないとしたら、それは登場人物たちの心の動きに対置できる中宮自身の心の動きがないからにほかなりません。
恋愛感情が分からない、男性に対する心のときめきが分からない、表に見える言動の裏腹でうごめくものに気づけない、嫉妬が分からない。焦がれるということが分からない、なにもかもが分からない――なぜなら12歳で后になった人には、そうした経験が圧倒的に足りないからです。
余談になりますが8日の放送では、まひろ(紫式部)と道長の関係を怪しむ女官たちの下品なやり取りの場面が出てきました。
「左大臣様と藤式部、足をもむ仲とも思えませんけども」
「お親しそう」
「ひたひたしてる」
「ひそひそでしょ?」
「ひたひたよぉ、ウフフフフッ」
ことの良し悪しは別として、こうしたやり取りの繰り返しの中から学ぶことも少なくないのです。しかし中宮彰子はその欠片にすら触れていません。18歳にもなろうというのに、まったくのオボコなのです。
【源氏物語が中宮彰子の情操を育てていく】
人間は言葉でものを考えます。日本人は日本語で考え、アメリカ人は英語で考えます。バイリンガルの人の頭の中には二か国語以上が飛び交っているはずです。言葉がなければ考えられませんし、言葉にならないものは存在しないか、存在しても自由に扱うことができません。
道長は12歳の彰子を入内させ、まさかすぐに妊娠することは考えなかったと思いますが、15歳、16歳になっても兆候が見えないとなると焦ります。しかも単に妊娠しにくいと言った話ではなく、そもそも一条帝に彰子を顧みる様子もなく、彰子も帝に心を寄せているふうがないのです。
性の具体的な問題なら赤染衛門のような達者な女官がいますからいかようにも教授できるのですが、情感は教えたり学んだりするものではなく、経験すべきものです。道長がいかに焦ろうとも、経験しそこなってきたことは、誰にも教えられない。だとしたら中宮彰子は、どのように手に入れていくのでしょう? あり得るのは疑似体験です、
読書の効能のひとつはそれです。私たちはしばしば書籍の中で新しい体験をし、体験の中から自分自身を発見します。
「ああ、これが私の本当に言いたかったことだ」
「私の思い描いていたのはまさにこれだった」
といった体験です。おそらく中宮彰子は今後、源氏物語を読むことで己のうちに蠢く名前のない情動に気づいて行くはずです。12歳の時には気づかなかった何かがはっきりと見えるようになってきて、それにやがて名前がつくようになる、名前がつくように紫式部が物語を通してすべてを整えていく――そんなふうになると思うのです。式部はそうした物語の働きを熟知していますから、積極的に中宮に必要なものを仕組んでいくこともできます。その仕掛けが、やがて中宮の心と体の中で発動し始める――私はそう考えていますが、いかがでしょう。
【大石静という人】
Wikipediaによると大石静という脚本家は1951年(昭和26年)生まれの現在72歳。日本女子大文学部国文学科を卒業後、青年座研究所に入所。俳優を目指すものの病気を発症したり結婚したり、ふたりだけの劇団をつくって公演したりと曲折を経たうえで、1991年(平成3年)から脚本家に専念。以後、NHK連続テレビ小説『ふたりっ子』の脚本で第15回向田邦子賞と第5回橋田賞をダブル受賞。2010年(平成22年)のNHKドラマ『セカンドバージン』は社会現象となり、2020年(令和2年)に文化庁長官表彰、2021年(令和3年)には旭日小綬章を受章、といった輝かしい実績を持っています。
主な作品としては『私の運命』『ふたりっ子』『Days』『オードリー』『ハンドク!!!』『功名が辻』『暴れん坊ママ』『四つの嘘』『セカンドバージン』『家売るオンナ』『大恋愛?僕を忘れる君と』『知らなくていいコト』『セカンドバージン』。そんなふうに書かれていますが、驚いたことにただひとつも私はきちんと観ていないのです。定年退職する以前はドラマもほとんど観ていませんでしたからそういうこともあるのでしょう。まるでいちいち外されているようなものですが、そういうこともあるかもしれません。
2024年(令和6年)、自身18年ぶりとなるNHK大河ドラマ『光る君へ』の脚本を担当。前後し、同脚本の執筆中となる2022年12月に夫の高橋正篤と死別。
ああ、そういう年齢の人だなあと改めて感嘆します。才能は生まれながらのものですから仕方ありませんが、72歳になっても精神的体力の必要な根を詰めた仕事ができるのは、羨ましいことです。そしてこうした才能のすばらしい才能を目の当たりにできた私も、やはり幸せ者だと思うわけです。
(この稿、終了)