NHK大河ドラマ「光る君へ」
いよいよ源氏物語が宮中で評判になり始める。
しかしそれにしても、学者の語る紫式部と大河の紫式部、
前者の方がより疑問の多いのはなぜだろう?
という話。
(写真:フォトAC)
【プロはプロらしく、技や力量を見せてほしい】
プロフェッショナルな人たちが、私がどう転んでもできるはずのない技を見せたり、偉業を達成したりするのを見るのが好きです。
大谷選手が易々とホームランを打つのを見るのもいいし、パラリピアンがとんでもない技や力で競い合うのを見るのも好きです。奈良や京都の観光バスのドライバーが、狭い住宅地の交差点を、右前10cm、左後ろ10cmくらいで一発ですり抜けて行くのを見るのが好きですし、地上40mくらいの高圧鉄塔から電線に乗り移り、ぶら下がりながら作業をする電力会社の社員の様子を見るのも好きです。
さて、今、ちょっと夢中になっているのは、ドラマの脚本家たちの、尋常ではない腕前です。もちろん感心しないドラマも多いのですが、ドラマを見ながら「やはりプロだなあ」と感服させられるのは、それ自体が快感です。
【「光る君へ」の現地点】
NHK大河ドラマ「光る君へ」。8日放送の第34回は、いよいよまひろ(宮中での呼び名は藤式部《とうしきぶ:のちに紫式部と呼ばれる主人公》)の書いた「源氏物語」が宮中で評判となり、それぞれが光る君のモデル探しに奔走したり、登場人物と自分とを比較して嘲笑ったり感心したりする場面が展開されました。
源俊賢(本田大輔)は「なぜ光る君を(藤原ではなく)源氏にしたのだ?」と訊ね、その上で「亡き父・高明を思い出した。父は素晴らしき人であった」と追想し、藤原斉信(金田哲)は「光る君は俺のことかと思っていたぞ」と発言して周囲を鼻白らませたりします。まひろはいずれの問いかけにも、「どなたのお顔を思い浮かべられても、それはお読みになる方次第でございます」と、さりげなくかわして相手にしません。
そう言えば先週も一条天皇から直接、
「光る君とは(一条天皇の第一皇子である)敦康(親王)か?」
と問われて、
「内緒でございます」
と答えています。天皇相手にふてぶてしいことです。しかしここにまひろの深謀遠慮があります。
【一条天皇の半生と「源氏物語」の類似】
そもそも初めて「源氏物語」を読んだ時の一条天皇は、相当に気分を害した様子で、ドラマの中でも直接まひろに語っています。
「あの書きぶりは朕を難じておると思い、腹が立った」
桐壺帝が桐壺更衣を深く愛し、そのために更衣が宮中でさまざまな嫌がらせを受け、そのこともあって早世してしまう点。彼女との間に生まれた忘れ形見(光の君)が桐壺帝の次の夫人・藤壺に託され、実の母親にそっくりと聞かされた光の君は藤壺に恋心を抱くという展開、それらは一条天皇にとっては自身と重なる部分が多く、不快に感じたのです。
一条天皇が深く愛した中宮定子が、宮中でさまざまな嫌がらせを受けていたことは清少納言の言葉としてすでに紹介されていましたし、敦康親王の1歳の誕生日の前日に中宮定子が亡くなると、親王は一条天皇の二人目の中宮である彰子に預けられ、とてもよく懐いていたという展開はほぼそっくりとも言えます。
そこに気づいてしっかりと掴み、決して話そうとしなかった――私はここにプロの脚本家としての大石静の力量を感じるのです。
【中宮定子は桐壺更衣のモデルになり得ない】
もちろん「一条帝の半生と桐壺の章は似ている」という気づきは特熱なものではありません。私は谷崎潤一郎版の「源氏物語」を読んだだけで、それ以上に深入りしなかったのですが、あのときあと一歩深く勉強をしていたら、
「ああ、源氏物語の冒頭は一条天皇と中宮定子をモデルに書かれたんだな」
と本気で想像したと思うのです。高校の授業では「枕草子」と中宮定子、「源氏物語」と中宮彰子の関係は学びますが、中宮定子と「源氏物語」という括りではものを考えたりしません。けれどそれに気づけば、桐壺更衣=中宮定子説は誰でも思いつく話です。ドラマの中で一条天皇が、
「光る君とは敦康か?」
と問うのと同じ視点です。
しかしこれはいかにも半可通な素人が言い出しそうな話で、歴史家や国文学者だと歯牙にもかけない話題です。なぜかというとさまざまな研究により、「源氏物語」は遅くとも西暦1001年には書き始められており、確かに中宮定子が亡くなってその子の敦康親王が中宮彰子に預けられたのは西暦1000年の8月で時間的には中宮定子=桐壺、敦康親王=光る君、藤壺=中宮彰子ということもありそうですが、このとき敦康親王2歳、中宮彰子は12歳で、とてもではありませんが“恋心”だのをかんがえられる歳ではなかったのです。
やはりここは、
「紫式部は夫である藤原宣孝が亡くなった哀しみを癒すためもあって、1001年ごろから『源氏物語」を書き始め、やがてその評判を聞きつけて1006年ごろ、藤原道長が宮中へ出仕させるようにした。一条天皇と中宮定子、敦康親王はモデルになり得ない」
という定説の方が有力なように見えてきます。
しかしどうでしょう?
【「源氏物語」が紫式部の処女作でいいのか】
あちらが立てばこちらが立たなくなるのが世の常です。
定説をそのまま信じるとそれはそれなりに別の疑問が沸き上がってきます。例えば、
- 「『源氏物語』は紫式部の処女作」でいいのか。式部は最初の物語であんな凄いものを書き始めたのか。
- どんな目算があって書き始めたのか。誰かに読んでもらうあてでもあったのか。
- 紙はどうしたのか。当時はとても高価だった紙は、父が国司だった越前から持ち帰ったとしても、一期のみの国司で先は見えている。学者の家だから紙は必需品。海のものとも山のものともつかない式部の物語のために、ふんだんに使っていいものではない。
- まだ宮中に上がったことのない式部が、どうやって宮中の様子を物語にできたのか。儀式の詳細や装束の細かな記述を、伝聞と想像だけで書くことは可能だったのか。父や夫から話を聞くと言っても、父の位は正五位下(しょうごいのげ)、夫:藤原宣孝も同じく正五位下と、官吏としては中級、貴族としては下級だから、とてもではないが宮中儀式に詳しく、式部に知恵を授けるという訳には行かなかったはず。
等々。私がほとほと感心するのは、「光る君へ」の脚本家・大石静がこうした矛盾をいとも簡単に解いて、歴史よりも真実らしい、新たな物語を創造して見せたことです。
(この稿、続く)