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「教員と教育関係者の子どもだけが幸せになれる時代」~学校から水泳指導がなくなる⑤

 20世紀の後半、学校の水泳指導のおかげで、
 水難事故は5分の1に、死者数で6分の1に減った。
 しかしもはやプールを維持する時代ではない。
 そこで教員は、我が子だけに正しい教育を施そうとする。
という話。(画像:フォトAC)

【学校が機能を手放せば、その部分で格差が生れる】

 学校は自由の城ではなく、平等の牙城だという点は案外見過ごされがちです。
 世の中には「勉強を教えるなんて塾の先生の方がうまいのだから学校なんていらない」と平気で言う人がいますが、その人たちは世の中に全く教育に関心のない親たちがいることを知らないのです。
 学校を無料の託児所くらいにしか考えていない親たちの一部は、公教育がなくなって塾に頼る日が来れば、どこにも出しません。そういう親の元に生まれた子は家で家事や家業を手伝わされるか、部屋の中で軟禁状態になるのです。
 江戸時代以前はもちろん、明治・大正時代あるいは昭和初期でさえも子どもを学校に出さずに働かせる親がいて、学校も行政もとても苦労したのです。教育を親に任せれば無学で能力に欠ける人が増え、国力は上がりませんし治安にも影響します。個人についていえば無知と貧困が世襲されるようになり、金持ちは自分たちの社会を守りに入ります。そうした社会がいい社会だと考える人は、多くはないでしょう。

【水難はとんでもなく減っていた】

 日本中の学校にプールがつくられたことにも、そういう意味があります。
 私は小学校に上がった年に学校にプールがなく、2年生の夏からプールができて水泳の授業を受けるようになった、そういう1960年前後の小学生です。非常に印象深く覚えているのは、翌年3年生になってクラス替えがあったとき、前年夏の水泳授業を通しても、10m以上泳げるようになっていたのは40人以上もいたクラスの中で、私一人だったということです。2年生のときに見よう見まねのコンジョウでがんばったおかげです。そのくらい誰も泳げませんでした。
 しかしそのくせ川遊びはしょっちゅうしていましたから、今から考えると危険極まりない。
 警視庁の古い統計に「夏期水難発生状況(昭和41年~平成21年)」という資料があって、それをグラフにしてみたのですが、2004年(平成16年)以降は横ばい傾向、しかしそれ以前はたいへんな勢いで減ってきているのです。
(警視庁「夏期水難発生状況(昭和41年~平成21年)」よりSuperT作成)
 
 2008年(平成21)に比べれば1966年(昭和41)に比べると件数でおよそ5倍、死者数では6倍もの違いがあったのです。
 
 件数・死者ともに減ったことについては、もちろん安全対策や救急体制が進んだこともありますし少子化のせいでもあるでしょう。しかし子どもたちが川で遊ばずに学校のプールに行くようになったこと、その子たちが長じて大人になっても、泳げるので簡単に溺れなくなったことなども当然影響しているはずです。少なくとも海や用水路に落ちても、小学生のころから何度も泳いできた私たちは慌てずに済みます。うろたえて暴れたりすることがなければ、助かる道はいくらでも見えてきます。
 これは学校にプールがあって、学校が一斉に教えたからそうなったのです。個人に任せたらこうはなりません。いくら1966年に比べて社会が豊かになり、スイミングスクールも増えて公営プールも多くなったといっても、意識が高く経済的に余裕のある家庭でないと、金や手間をかけて、子どもに水泳など教えたりしないのです。
 悲しいことに、親に恵まれなかった貧しい家の子だけが、溺れて死ぬ世界になっていたのかもしれないのです。

【水泳をしない“特色のある学校”づくり】

 今後、水泳の授業の民間委託はうまく行くでしょうか?
 私はしばらくのあいだ民間委託に多くの学校が流れ、やがて先細りになって行くような気がしています。今の内は子どもたちも物珍しいので喜んで参加していますが、1時間の水泳のためにわざわざ遠くまで徒歩やバスで行くのは面倒です。それでも行くたびに大きな成長が期待できるなら面白いでしょうが、私自身の子どもを見る限り、スポーツはそう簡単にうまくなったりしません。
 しばらくすると民間委託の授業に子ども教師もゲンナリしてきます。特に半日もかけて民間施設にやってくる遠隔地の学校は、たった5回の水泳授業のために登校日数も増やさざるを得ず、水泳学習を意義から問い直さなくてはならなくなります。元に戻すと言っても、何年も放置されてきた学校のプールは、取り返しのつかないほど老朽化しています。

 実はこういう時に便利な言葉が学校にはあります。「特色ある学校づくり」です。
 学習指導要領の保健体育の部分には、次のような一文があって水泳は必須でないことが唱われています。
『(6) 第2の内容の「D水遊び」及び「D水泳運動」の指導については,適切な水泳場の確保が困難な場合にはこれらを取り扱わないことができる』
 ですから「特色ある学校づくり」の一環として、別なスポーツをやればいいのです。
 近くにゴルフ場のある学校では、ゴルフクラブとタイアップして平日のコースを使わせてもらいます。将来の顧客、あるいは従業員ですから、ゴルフ場も嫌とは言わないでしょう。体育にゴルフを取り入れている小中学校となれば取材もたびたび入りますから、さりげなく宣伝してあげるのもいいでしょう。
 平昌オリンピックの金メダリスト小平奈緒さんは小学校の体育でスケートに触れ、学校のスケートクラブで腕(脚?)を磨きました。小学校の裏か表だかに保護者がスケート場をつくっていたそうです。そうした学校では10時間の水泳の代わりにスケートの授業を設ければいいのです。
 その他、山の学校ではプールの代わりにボルダリングの施設をつくってもらうとか、スケートボードのコースをつくるとか(いずれも建設費も維持費もプールよりは安そうです)、ヒップホップダンスに10時間を使うとか、いっそのことフェンシングとかレスリングとか――水泳を扱わない理由はいくらでも探せます。
 もう水泳はしなくてもけっこうでしょう。

【最後に、後ろめたいこと、負い目と感じていること】

 私の娘のシーナのところには鬼の鉄則があります。それは主食を完食できない人間はデザートを食べてはいけないというものです。
 私にとっては初孫の、娘にとっては長男のハーヴが5歳のとき、その鉄則に触れて大好きなイチゴを食べられず、泣きながら台所に戻す様子が動画として残されています。娘のシーナも婿のアキュラも鬼です。しかし私もそれを止めたりしません。必要なことだと知っているからです。
 婿のエージュは小学校の教員ですが、おそらく学校ではそんな厳しい指導はしていないはずです。やれば職を失うからです。自分の正しいと思う教育は許されていないので学校ではできない――かくして教員は正しいと思う教育を、家に帰って我が子に行うのです。
 学校が水泳の指導をしなくなったら、教員は慌てて我が子をスイミングスクールに入れるか自分で教えるかするに違いありません。泳げることは絶対に必要だと、分かっているからです。
 教員と教育関係者だけが、正しい教育を我が子に施せる時代が目の前にせまっています。我が家は安泰、だから後ろめたいのです
(この稿、終了)