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「阿部詩はどのように泣いたのか」~メディアはもう少し日本語がうまくなってもいいだろう

 阿部詩が負けた。それは仕方ないことだ。
 しかしそれにしてもあの涙の扱いはどうだ?
 阿部詩は負けてほんとうに “ギャン泣き”したのか、
 それとも”慟哭(どうこく)”したのか、"絶叫大号泣"だったのか? 
という話。(写真:フォトAC)

【阿部詩は負けて“ギャン泣き”したのか】

 7月28日(日)、何となく頭の隅で1日中、決勝進出を逃した池江璃花子のことを考えているような夕方、「阿部詩、敗れる」の一報が入りました。私は詩ちゃんのファンでもあるので頭の中で池江と阿部のふたつは同時に処理できないと感じて、阿部詩のニュースは日を置いて見ることにしました。
 そして二日置いた昨日、ようやくVTRで試合を観るとともにネットニュースをあれこれ読んで、少し気分が落ち着くと同時に「はて?」と首を傾げることになったのです(この「はて?」はNHKの朝ドラの影響です)。
 
 私が「はて?」と思ったのは、阿部詩が畳から降りて関係者らしい男性の胸にすがって大声で泣く様子――これはもう「号泣」という言葉がピッタリとふさわしく、それ以外の選択肢がないほどのものでしたが、それをメディアがさまざまに、不思議な表現で記事にしていたからです。中でも日刊ゲンダイ(デジタル)は、こともあろうに「ギャン泣き」と表現して私を驚かせます*1
 私は今日まで大人が“ギャン泣き”しているのを見たことがありませんし、大人が激しく泣く様子を“ギャン泣き”と表現するメディアに会ったこともありません。例えば、
ガザ地区で出会った男性は我が子の亡骸を抱きしめながら、激しくギャン泣きしていた」
とは絶対に書かないでしょう? こんなふうに「悪い例」として書くことすら憚られます。

 私の感覚では小学生でも“ギャン泣き”することはありません。彼らよりもっと年少の子どもたち、例えば乳幼児が息もできないほどに激しく泣いて、どう手を尽くしても泣き止みそうにないとき、それを“ギャン泣き”というのです。阿部詩もガザの父親も、いつ果てるともないほどに激しく泣き続けますが、ふたりとも乳幼児ではありませんし、この人たちには“号泣”という立派で使い慣れた言葉があるのでそれを使えばいいのです。

 先の日刊ゲンダイ(デジタル)は同じ記事の中で、阿部詩が激しく泣く様子を“ギャン泣き”以外の様々な言葉で表現しています。大号泣、大泣き、のび太くん泣き・・・。さらに別記事*2では「慟哭」を使ってみたり、タイトルの表現を“ギャン泣き”から“大号泣”に変えてみたり*3――。

【泣く表現:号泣・大泣き・慟哭・嗚咽を漏らす・むせび泣く】

 思うにマスメディアは「号泣」という言葉を使いすぎて来たのです。有名人がちょっと涙を流しただけで「号泣」、嗚咽が漏れれば「大号泣」、とにかく泣けば「号泣」。あれもこれも「号泣」ですから涙の表現はとんでもなく薄っぺらになります。
 私の言語感覚から言えば阿部詩以前に公衆の面前で「号泣」したのは10年ほど前、政務活動費の不自然な支出を追求された元兵庫県議会議員が行った、あの有名な「号泣記者会見*4」だけです。「号泣」とは「大声を出して泣くこと」を言うのですから、大人はめったに人前で号泣したりしないのです。
 
 さらに言えば「号泣」はすでにそれだけで声の大きさを表現していますから「大号泣」というのもおかしい。強いて言えば複数の人が同時に号泣することを「大号泣」ということはできるかもしれませんが、それも稀です。
 
 「号泣」はまた「大泣き」とも異なります。「大泣き」には「大声を出して」という条件がありませんから「声を殺して大泣きした」という言い方もできますが、「声を殺して号泣する」ことはできない。
 
 「慟哭(どうこく)」も大きな声で泣くことです。ただしこちらには「悲しいことがあって」という条件が入ります。「葬儀の席で激しく慟哭した」は適切な例ですが、一昨日の阿部詩の涙は必ずしも悲しかったからではないでしょう。むしろ悔しさや(自分自身に対する)怒り、何とも説明のできない衝撃などが涙の原因だったはずです。だったら「慟哭」ではありません。
 
 「泣き叫ぶ」「泣きわめく」も「慟哭」や「号泣」と同じように大きな声を出して泣くことですが、こちらの方はそもそも泣き始めの原因が忘れられて、泣くこと自体が目的のようになっている場合や、ほとんど感情を伴わないのに大声で泣くことを言います。ですから子どもがパニックになって泣きながら走り回っているときや、痛みに耐えかねて大声を上げるときはこれを使います。「泣き叫ぶ」と「泣きわめく」の違いは、前者が一声で終わることもあるのに対し、後者には「騒ぐ」という印象が含まれる点だけです。
 
 声を出して泣く表現には他にも「嗚咽(おえつ)をもらす」「むせび泣く」などがありますが、これらは「声を出さないように努力しているにも関わらず出てしまう声」を出して泣くことを言います。「嗚咽」は漏れてしまう泣き声、「むせび泣く」のは声を詰まらせて泣く状態を言います。
 
 そう考えると今回の阿部詩について書かれたさまざまな言葉、
「絶叫号泣」
「敗戦直後から声を上げて号泣」
「悲鳴を上げながら号泣」
「コーチの胸で『ぎゃぁぁぁ!』と叫びながら号泣」*5
は、どれもこれも感心できないものばかりだということがわかります。全部「馬から落馬した」たぐいの話です。
 ではどうしたら正しい言語感覚が身につくのでしょう。

【どうしたら正しい言語感覚が身につくのか】

 基本的には良い文章をたくさん読むことでしか言語感覚は育ってきません。私はもう70歳を過ぎていますから、普通の10代~20代よりかなりたくさんの本を読んできています。それも基本的には教育関係と文学などの質の高い文章です。
 たくさん読んでいますから「号泣」も「慟哭」も「嗚咽を漏らす」も「泣き叫ぶ」も、どれもこれも本の中で何百回となく経験してきます。しかも基本的には「正しい」日本語で書かれた美しい文章ばかりです。だからどうしても正しい日本語が身についてきます。
 もちろん今、この文章を書くにあたって「号泣」や「慟哭」はいちいち調べ直しましたが、日常的な文を書く上では迷いませんし、「声を上げて号泣」などには瞬間的に違和感を持ちます。
 それが読書をしなくてはならない大きな意味のひとつなのです。