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「その子らしさは守り、個性は叩く」~素晴らしきネット社会の人生⑤

 「新しい学校のリーダーズ」という女性ボーカルグループが気になる。
 極めて個性的な歌とダンスのできる子たちだ。
 しかしその個性は持って生まれたものではないだろう。
 それは叩かれ鍛えられてきたものだ。
 という話。

新しい学校のリーダーズ

 4月最終週のミュージック・ステーション(Mステ)に出演しているのを見て一度でハマりました。Mステなんて何年もまじめに観たことはなく、普段はチャンネルを変える最中に通過点として目に触れるだけなのに、この日に限って立ち止まったのはそこに何かしら運命めいたものがあるのかもしれません。しかも音楽に心動かされたのではなく、歌う前の、司会者とのロクでもないやりとりの最中に引っかかったのです。何か心に触れるものがあったのでしょう。

 歌い始めるとすぐにくぎ付けになったのは、あとから考えると曲がまるで昭和歌謡で馴染みやすかったこともありますが、それよりなにより、あの気味の悪い首振りダンスとなりふり構わぬパフォーマンスのためかと思います。むやみにスカートをまくり上げたり変顔を曝したりと、これまでのアイドルとは全く異なる気持ち悪さと下品さですが、歌やダンスの拙さをおふざけで取り繕うというのではなく、それらを純粋に表現の一部として取り込んでいるのです。私の見る限り(ですからアテになりませんが)、歌もダンスもとても上手でした。

 品のなさだけだったら「いとうあさこ」も「ゆりやんレトリィバァ」も、古くは「森三中」だってやってきたことです。それを「お笑い」とではなく、確かな歌唱とダンスを結び付けた点が新しく、個性的なのです。あれだけのものに仕上げた時点で「新しい学校のリーダーズ」の勝ちでしょう。

 「個性」は一面で「コロンブスの卵」です。
 「これくらいならオレだって思いついた」とか「少し前に似たことをやっていた」とか、「昭和歌謡がそろそろ来ると思っていた」とか、あとから言ってもダメです。昭和歌謡なら2019年の映画日本版「あやしい彼女」で多部未華子も歌っていましたが、当時は流行る兆しもなかったのです。

【個性は定義がやっかい】

 これまでも繰り返し言ってきましたが、私は「個性」と言う言葉が安易に使われることにしばしば苛立ちます。語の定義に幅がありすぎて話が噛み合って来ないのです。
 例えば、「学校は子どもたち一人ひとりの個性を大切にし、丁寧に育てるべきだ」という言葉を聞いた時、ふつうの人たちは何をどうすることだと考えるのでしょう?

 学校がモーツアルトスティーブ・ジョブズ大谷翔平だらけだったら話は簡単です。私たちは彼らの「個性」に一片の傷も与えぬよう、細心の注意を払ってお育て申し上げなくてはいけません――それは分かります。
 しかしモーツアルトジョブズはめったにいないからモーツアルトジョブズなのであって、少なくとも私は、そんなに明らかで価値のある個性をもった児童生徒には会ったことがありません。

 では普通の子どもが持っている個性とはなにか?
 通常ここで出されてくる答えのひとつは、「その子の生まれながら持っている“良さ”」「持って生まれたその子らしさ」です。それが私には分からない。
 「良さ」とは何でしょう? 「優しい」とか「元気だ」とかいったことでしょうか? 「物知りだ」とか「スポーツが得意」とかいったことはどうでしょう? どれもこれも大切にしたいものですがそれって、親や教師あるいは社会にとっての「都合のよさ」ということはありませんか? 大人にとっての都合の良さを、「個性」と呼んでいいのでしょうか。

 少なくともモーツアルトジョブズの個性は学校や教師にとって都合のよいものではなかったはずです。エジソンの個性は小学校と全く相容れませんでしたし、ジョン・レノンも学校の困り者だったのです。しかしもちろん彼らがエジソンジョン・レノンになると分かっていれば、学校はいくらでも譲歩できたはずです。不公平な扱いにクレームが来たらこう言えばいいのですから。
「あの子たちは特別です。だってエジソンジョン・レノンですもの!」

【その子らしさは守り、個性は叩かなくてはならない】

 「生まれながら持っているその子の良さ」は(ほんとうにオギャーと生まれた瞬間から持っていたかどうかは疑問ですが)やはり大切に守っていきたいとは思います。しかし「個性」は叩かなくてはなりません。「個性」は鍛えるものであって、守ってやるべきものではないからです。
 ピアノなどの楽器を学んだ人、少年野球などでスポーツの基礎を学んだ人、あるいは絵画や毛筆を習った人は記憶があるでしょ? 練習の場では、あなたの「あなたらしさ」は徹底的に矯正されたのです。うまくできないことは何度も何度もやり直しをさせられました。
 そしてそれにもかかわらず矯正しきれず、あるいは直したにもかかわらず新たに生まれてきた偏向・癖・特徴の内、価値あるものだけが「個性」と呼ばれます。子どもたち個性は鍛える中でしか光り輝いてきません。髪をツーブロックにしたり、薄いブラウスから透ける下着のパステルカラーがブルーがいいかピンクがいいかといったことで身につくものではないのです。
 
 「新しい学校のリーダーズ」の変顔や品のなさも、叩く人は叩けばいいのです。それで潰されるようならその程度のものですし、潰されなければさらに強力な個性として立ち現れてくるに違いありません。
 でもあの子たちなら大丈夫でしょう。私はこのグループの成長を楽しみにしています。いま一番のマイブームです。
(この稿、終了)

《付録》
 


(写真:フォトAC)