カイト・カフェ

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「四十九日を過ぎて線香を贈る」~12月に亡くなったかつての同僚のこと

 12月に亡くなった元同僚の家に線香を贈った。
 葬儀の際は慌ただしくて何もできなかったからだ。
 夫人からはすぐに電話が来て、しばらく話すことができた。
 楽しかった昔も甦ってきた。
 という話。(写真:フォトAC)

【四十九日を過ぎて線香を贈る】 

 昨年12月の初めに、新聞で昔の若い同僚の死を知ったというお話をしました。

kite-cafe.hatenablog.com お悔やみ欄に発見した翌日が葬儀だったの慌てて弔電を打ち、一緒に働いていた当時の学年主任に連絡して、あとはどこも連絡しようがない――と思っていたところにフェイスブックのダイレクトメールで昔の教え子から連絡が入り、なんとそれがまったく関係のない話だったのですが、その伝手をたどって、亡くなった先生が担任していたクラスの同窓会長に連絡することができました。12月はそこまでで、弔電を打ってから2週間ほどして、夫人と娘さん連名の挨拶状を受け取りました。
 今月、四十九日の法要がいつ行われるのか分からなかったのですが、だいたいそれが済んだあたりと目星をつけて、先月送れなかった香典代わりのお線香を贈っておきました。

 日本香道のテレビCM『喪中見舞「まちの賢者」篇』で、喫茶店の女性客が「最近、喪中はがきでご不幸を知ることが重なって・・・」と嘆くとマスターの笹野高史さんが「私ね、進物用のお線香を送ることにしてるんです。『喪中見舞』って書いて・・・」と知恵を授ける場面が出てきますが、あれと同じです。
 私の家ではこのCMのずっと以前から、同じことをしています。もちろん私の知恵ではなく、父が亡くなった翌年、そのようにしてくださる方があって初めて知ったものです。

 ネット通販から直接送ってもいいようなものですが、手紙を添えたい事情もあっていったん我が家に送ってもらい、双銀の水引の着いた掛け紙に名前等を書いき、手紙を入れ、包装し直してから改めて宅配に出しました。

 このとき我ながら賢かったのは、Amazonから送られてきた梱包を最初から丁寧にとっておいて、のちに再利用したことです。中身は壊れやすいものですが業者の梱包ですからまず間違いないでしょう。あまり余計なことに気を回さずに済んで楽でした。
 それともうひとつ、さすがに「喪中見舞」と書けば笹野高史さんに教えられたマンマみたいで気恥ずかしいし、12月の葬儀でしたので表書きは「御供」としておきました。あまり問題にならないところでしょう。
 そして線香が着いたその日に、ほとんど時間を置かず奥様から電話をいただきました。

膵臓がん】

 人間関係というのは不思議なものです。この方とは30年ほど前、引っ越しでお別れする際にわざわざ挨拶に来られて、数分間言葉を交わしたのが最初で最後だったはずです。それが御夫君というひとつの存在を軸に、いくらでも話ができるのです。
 まるでつい2~3カ月ほど前に会ったばかりというふうに話は弾むのですが、内容は少なくとも数年にわたるものでした。聞けば膵臓がんだそうです。
 
 だいぶ前から調子が悪いと言っていて、人間ドックでも相談したのにこれといった原因が分からなかった、それが2018年に膵臓がんと明らかになり、即座に余命宣告が成されたと言います。膵臓がんとはそういうものです。
 
 おそらくがんの専門医100人に訊けば100人とも現在における最悪のがんは膵臓がんだと言うに違いありません。それくらい治療成績が悪いのです。
 国立がん研究センターのサイトによれば、いちおう治った(緩解した)と考えられる目安である5年生存率は男性の場合、がん全体の平均で62・0%。ところが膵臓がんは8・9%しかないのです。治療成績の悪い方から2番目の胆のう・胆管がんが26・2%、第3位の肺がんが29・5%ですから膵臓がんは予後の悪さで際立っています。
 
 亡くなった有名人も、さいとうたかを矢口高雄八千草薫星野仙一千代の富士貢、淡島千景栗本薫中島梓南風洋子、頭師孝雄、加藤道子青江三奈黒田清高橋悦史安倍晋太郎山本七平武智鉄二・・・、いずれも「あれ? 昨日まで元気でテレビに出ていなかった?」とか「いなくなったことに気づかなかった」といった人ばかりです。それだけ発見するのが難しく、見つかった時にはすでに手遅れで死ぬまでの期間が短いのです。

【陰と陽、それでも楽しかった日々】

 私の知人教師も発見の遅れたひとりです。だから余命宣告が出たのですが、この人の場合は抗がん剤との相性がよかったらしく、その後がんは縮小していったんは手術をするところまでこぎつけたのだそうです。もちろんそういうこともあろうかと思いますが、膵臓がんで一時的にしろ良い方向が見えたという話を、私はこれまで聞いたことがありません。ご家族に時間をつくるよう、がんばられたのですね。

 しかし平和は長くは続かず、がんは再発し、やがて薬も効かなくなって2021年の暮れだか2022年の年明けくらいにはそれ以上の治療を諦め、退職を決意するとともに緩和ケアに入ったようです。
 正式に退職して4月になると食欲も落ち、最後は自宅で家族に看取られながら亡くなったと言います。退職の日からだけでも8カ月におよぶ闘病ですから、長かったですね。
 享年59歳。闘病は長かったですが、早すぎる死であることには違いありません。
 
 夫人は話の途中でこんな話をされました。
「覚えてないかもしれませんけどT先生(私のこと)、私たちの結婚式のときにパンフレットを作ってくださいました。先ほど思い出して押入れをガサゴソ探したら、あんがい簡単に出て来ました。このあと送りますね」

 しばらくするとショートメールに数枚の写真が送られてきました。忘れていたのですが二人それぞれの誕生から結婚までを、ユーモアを交えて紹介した軽快な文章でした。そう言えばあの頃は、同僚の結婚を面白おかしがって楽しむだけの余裕がありました。
 いまと同じようにとんでもない時間外労働を行っていましたが、働くのが楽しくてしょうがない、そんな側面もあったのです。