カイト・カフェ

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「ひとの気持ちを考える教育は必要だが」~落ち着いた雰囲気で授業を行う工夫④

 そもそも子どもたちは「私たちと同じ人間」なのだろか?
 私たちが同僚に期待できることは、子どもたちにも期待していいのか?
 これまでのさまざまな経験が教えるところは「否」だ。
 たとえ期待できるようなふりをしても、実際にはできない。

という話。

(写真:SuperT)


【1・2年生は果たして人間と言えるだろうか】

 「小学校1・2年生に必要なのは教育よりも躾だ」とか「7・8歳児はそもそも私たちと同じ人間であることすら疑わしい」とか言ったりすると激しい嫌悪感を持つ人は必ずいます。しかし私は、全員とは言いませんが、かなりの数の1・2年生がこの言い方の枠に入ると思っています。もちろんこの子たちが生物学的にヒトであることは疑う余地がありません。しかし「話せばわかる」とか「ひとの気持ちがわかる」とかいった意味での「同じ人間」か、ということになるとかなり怪しい子がいるのです。

 発達心理学では子どもが「他人には他人の別な見方考え方があると理解できる(心の理論の獲得)」のは3歳半を過ぎてからのことであり、6歳までにはほぼ95%が理解できるようになるとされています。つまり社会的な人間としての機能が備わったわけです。ところがその機能が十分に働くかということになると、別問題です。

 

【瞬間的に他人の思惑に気づくことは難しい】

 例えば――。
 私は学校を退職後、しばらく学童保育に勤めたことがあるのですが、二学期の最終日、終業式を終えて来た子どもたちのかなり多くが、いきなり冬休み帳を取り出して勉強を始めたことがありました。それがそろいもそろってヤンチャな子ばかりなので怪しんで見ると、学校から渡された解答集を広げて答えを写しているのです。家に持ち帰ればすぐに親に渡さなくてはなりません。今のうちに全部やってしまおうという腹です。
 タイトルに使った写真はその時のもので、目隠しをしているのは個人情報保護の問題ではなく、この子たちが犯罪者だからです。

 撮られていることに気づいた二人はこのあと慌てて宿題をバッグに入れ、素知らぬ顔で遊びに行きます。3年生ですから。
 ところが1年生(場合によっては2年生も)のうちの何人かは隠そうともせず、中には笑顔でピースをしてくる子までいるのです。その子たちは私がなぜ写真を撮っているのか理解できない、少なくとも反射的に撮影者の思惑を考えて、ヤバイと思うことができない、それが小学校の低学年なのです。
 私が「7・8歳児はそもそも私たちと同じ人間であることすら疑わしい」というのはそういう意味です。

 

【人の気持ちを考える教育は必要だが】

 もちろん相手が3歳児でも「ひとの気持ちを考えなさい」とか「相手の気持ちになってごらんなさい」とかいった指導は大事です。手前味噌ですが私の娘のシーナなどは、孫のハーヴが0歳児のころから、一人前のひととして扱うような会話の仕方をしてきました。

「はじめてジジにお風呂に入れてもらうわけだけど、この人はいい人だから安心して入れてもらいなさい。泣いたり暴れたりして困らせてはいけないよ」
 言うまでもなく言葉の一言一句さえも理解できない赤ん坊ですが、同じ態度で5年~10年と続けていけば、その子が理解できるようになる瞬間を逃さずに済みます。こういう言い方の積み重ねが子どもを育てる、とも言えます。
 しかしだからといって0歳児が介助者の気持ちを慮って、泣いたり暴れたりしないように頑張ってくれるだろうと期待するのは愚かでしょう。指導はそのようにしても、結果は期待できないのです。当たり前のことです

 小学校の低学年に話を戻すと、私たちは「人の気持ちを考えなさい」とか「周囲があなたのことをどう見ているのか、見回してごらん」とか指導しますが(そうせざるを得ないのですが)、だからといって必ずしも彼らが人の思惑を考え、行動できるようになるかというとそうでもないのです。能力的にそこまで追いつきません。
 だったらどうするのか、それが問題です。

(この稿、続く)