カイト・カフェ

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「卒業式に思い出す、死ぬ前にやっておきたいひとつのこと」~余命が定まったらすべきことがある

 卒業式の季節が近づくと思い出すことがある。
 中途半端な指導のまま送り出してしまった子どもたちのことだ。
 彼らはいま何をしているのだろう。
 私の余命が定まったら、そのときしなくてはならないことがある。

という話。f:id:kite-cafe:20220316193245j:plain(写真:フォトAC)

【先生方、一年間ご苦労様でした】

 遅い地域でもほぼ今週いっぱいで今学期、今年度の登校日が終わります。今日が卒業式という学校も少なくないことでしょう。先生方、特に最高学年を担任して卒業生を送り出した先生方、ほんとうにご苦労様でした。多くの子どもたちはやがて担任教師のことなど忘れてしまいます。しかし先生方が情熱をもって彼らの心に流し込んだ言葉は、その血肉となって生き続けることでしょう。

「誰から教えてもらったかは忘れたけど、オレ、この言葉、好きなんだよな」
 そんなことがあれば教師冥利に尽きます。長く教員を続けてきましたから私にもそんな例がひとつかふたつ、あればいいなあと思っています。
 しかし私自身が実際に思い出すのは、自分が拙かったことばかりです。

【忘れられないH君のこと】

 中でも忘れられないのは30年ほど前、中学三年生を卒業させて職員室に戻ってきたとき、机の上に置かれていた一束の手紙のことです。副担任の先生が密かに準備してくれた、卒業生から感謝の手紙です。
 誰もいなくなった教室に移動してその静寂の中で、ひとつひとつ思い出に耽りながら読み進めたのですが、H君の手紙に至ってはたと手が止まりました。そこにはこんな一文があったのです。
「先生、ぼくを病院に連れて行ってくれてありがとうございました」
 その行を読んだら泣けて、泣けて、次に進めません。
 医師は「元気のなくなる病気」と言いましたが、いま考えるとうつ病だったのでしょう。それもかなり重篤になるまで私は気づきませんでした。気づいてからも有効な手を打てず、ずいぶんと時間をムダにした後で保護者と相談の上、心療内科の門を叩いたのです。できることがなくなって病院に放り込んだようなものです。
 礼など言われていいことではないのにありがとうと言われて、申し訳なくて、申し訳なくて、涙が止まらなかったのです。

 教職はアフター・ケアもアフター・メンテナンスもほとんどしない仕事です。目の前の子どもに精一杯で、卒業させた子どものことなどかまっている暇がありません。H君の場合はさらにそのあと私が100kmも離れた土地に異動したため、それきりになってしまいました。5年ほど経って成人式の日、出席しないH君について元教え子に訊くと、どこかの施設に通っているらしいとのことでした。以後消息は聞いていません。

【余命三カ月ならやらなければならないことがある】

 前に患ったことがあるので私はガンで死ぬと決めています。それでいいと思っています。慣れてもいますし何といってもガンの良いところは余命宣告がされることです。
 余命三カ月あるいは半年となったら、私にはやりたいことがあります。それはかつての教え子を訪ねる行脚の旅です。
 もちろんいまでも行けないわけではないのですが、20年も30年も前の元担任がとつぜん現れても相手は戸惑うばかりでしょう。それにその子がいま何かの問題を抱えていたとしても、大人になった彼らにしてやれることは何もありません。しかし余命三カ月の元担任が会いに行くとなれば話は違ってきます。
「いやはや私も寿命が尽きたようでね、あまり長くは生きられそうにないんだ。そこで懐かしくてキミの顔を見に来た」
 これなら自然で、相手を困らせるようなこともないでしょう。ほんの1~2時間、酒を酌み交わして別れればいいだけのことです。

 そんなふうに私は、まずH君に会いたい。会って心からお詫びをしたい。なぜもっと早く気づいてあげられなかったのか、なぜもっと早く病院に連れて行かれなかったのか――。
 もちろんそんなことを言われてもH君は困るだけですから口に出して言うことはありません。心の中で詫びるだけの完全な自己満足でしかないのですが、それでも生きている間に詫びておきたい。
 そんな私にH君は何を話してくれるでしょうか?

【心の中の大きな安堵と小さな後悔】

 元教え子を訪ねる行脚の旅で会ってみたい元生徒が、平均すると担任したクラスに2~3人ずついます。ことごとく課題や問題を抱えた子たちです。
 校内一の不良少年で(といっても田舎ですから大したことはない)、卒業後ただ一人「高校を中退していいか」と相談に来た子。中3のときに家出を繰り返し、高校2年生のとき母親となった子。母子家庭の母親の葬儀と自分の中学校入学式が同じ日で、3年間が本当に辛かった子。私にいじめ被害を見落とされてしまった子、不登校だった子、特別支援学級に籍のあった子、亡くなってしまった子――考えていくとけっこうな数になってしまいます。余命三か月では間に合わないかもしれません。
 いずれも教師としての私に余裕があったり余力があったり、あるいは経験があれば何とかできたかもしれない子たちです。

 児童生徒を卒業させるというのは、大きな安堵と小さな後悔を心の中に持つことです。しかしその後悔は、私の場合、やがて膨らんでいつまでも心の中に残り続けているのです。