「誰かが、どこかで介入できなかったのか」~大口病院点滴中毒死事件の判決で考えたこと② 

 それにしてもいわゆる「大口病院連続点滴中毒死事件」。
 犯行に至るまでの27年間、誰も被告の異常に気づかなかったのか、
 不安を感じて彼女の人生に介入しようとする人はいなかったのか、
 無理だったろうなと思う一方で、それでも未練が残る。 

という話。

f:id:kite-cafe:20211111074744j:plain(写真:フォトAC)

 

【略歴】

 昨日紹介した月刊「文芸春秋」、『点滴不審死48人 殺人看護師の精神鑑定「自分でも止められない」鑑定医が明かす深層心理とは?』を記したのは、被告の精神鑑定を行った昭和大学医学部の岩波明という教授です。
 この人は被告の成育暦も調査していて、小中学校の通知票の所見欄を拾っています。
「穏やかで自分の考えを押し通そうとせず、友達と仲良く助け合って生活しています」(小1) 
「人の気持ちを思いやる心が育ってきており道徳の発表などは、随所で優しさが光っています」(小2) 
「物静かですが、しっかりと話を聞き、しっかりと考えて的確な行動をとることができます。また自分の意見をはっきりと主張できるのも立派です」(小4)
「友人関係は安定し、日常の諸活動や、体育祭等にも、みんなと協力して、しっかり取り組むことができました」(中1)


 通知票というのは良いことを誉めて書くのが原則で、2割増しくらいが通常ですからその2割を差し引くと、普通の、あまりにも平凡な子どもの姿が透けてきます。4年生の所見の「物静か」はもちろん客観的ですが「しっかりと話を聞き、しっかりと考えて」いたかどうかは分かりにくいところです。中1の「みんなと協力して、しっかり取り組むことができました」もおそらく「問題なく行えました」程度の意味でしょう。担任を責めることはできません。こういう「平凡な」「普通の子」の評価はとても難しいのです。

 高校に入ると被告女性は友だちを失います。岩波教授の記述によれば、「クラスに馴染めず、孤立してしまった」のです。
 卒業後は看護専門学校に通って2年後看護師資格をとり、横浜市内の病院に就職。リハビリテーション病棟で2年働いたのちに障害者病棟に異動になります。ここに問題があったと岩波教授は言います。

【誰かが、どこかで介入できなかったのか】

 被告は看護学校時代の成績に特徴を持っていました。学科の成績は普通なのに、実習の成績がひどく悪いのです(14科目中9科目がC判定)。本人も「あらかじめ決められた手順をこなすことはできるが、臨機応変な対応を求められると混乱する」と話していました。
 リハビリテーション病棟の勤務はまさに「あらかじめきめられた手順をこなす」仕事であったのに対し、障害者病棟の勤務では患者の容態の急変もあり、さまざまな場面で「臨機応変な対応」が必要になったのかもしれません。要するに最も勤めてはいけない場所での勤務となってしまったわけです。
 そして2014年4月、被告はうつ病を発症してその後休職。およそ1年後に退職して、翌月、別の病院で採用されます。それが事件の舞台となった旧大口病院です。その先のことはニュースに詳しいところです。

 被告は1987年生まれですから、看護学校を出て最初の就職をしたのが2007年、リハビリ病棟から障害者病棟に移ったのが2010年ということになります。そこからうつ病を発症するまでの4年間については、岩波教授の記述にありません。おそらくその間に病はじわじわと被告を蝕んでいったのでしょう。そしてある時点で異常は誰の目にもはっきりしてきた――そういうことだと思います。
 しかしそれまでの長い年月、誰も被告の精神を怪しむことはなかったのでしょうか。どこかでこの子の人生に介入する人はいなかったのでしょうか。

 判決には、「『ASD=自閉スペクトラム症』の特性を有し」とありましたが、障害の観点から小中学校の担任たちは気にかけることはなかったのか、高校の教師はクラスの中で孤立するこの子に気づかなかったのか、看護学校の教師たちは実地研修の成績があまりに低いこの子の将来に、不安を持たななかったのか――。
 

【しつこく続く想い】

 できなかったのだろうな、と私は思います。
 ASDは今でこそ周知されていますが、被告が小中学生時代をすごした1993年~2002年はまさに教員の間に知識の広がる直前だったのです。それまでは、単なる「風変わりな子」でしかありませんでした。
 高校は――普通高校の教師にそこまで求めるのは酷でしょう。看護学校も、実地研修を終える段階まできて、今さら向いていないとも言えなかったと思います。
 それでも何とかならなかったものか、と私の思いは続きます。どこかの時点でひとつ道を変えることで、被告と被告に殺された48人の命は救われたのです。

 そしてそんなふうに考えている内に、私は自分自身が担任した一人の中学生のことを思い出し始めました。天井を見て歩くようになったK君のことです。

(この稿、続く)