「何のために勉強するのかに統一的な答えはない」~魔の11月をどうしのぐか② 

 本来なら落ち着いた学習ができるはずの11月、
 子どもが気持ちを合わせて勉強するには、統一的な目標が必要だ。
 しかし何のために勉強するのかには、統一的な答えがない。
 だとしたら、どうしたらいいのだろう。

という話。  

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(写真:フォトAC)



【目標をもう一度明らかにする】

 一昨日、学級崩壊を起こさないためには、学級独自の行事を置くか、行事の関係しない最低一年間は有効な目標を別につくり、それを不断に意識させるという方法が考えられると書き、 その上で、
 そして気づくのは、「そんな目標は最初からあるじゃないか」ということです。
と申し上げました。
 それを読んですぐに学級目標を思い浮かべることのできた先生は立派です。そもそも4月につくった学級目標が11月にも有効であるような例は稀だからです。

 「挨拶学校一」だとか「クラスで3万冊読書」といった具体的な目標であればここで仕切り直しになるのですが、たいていの場合は「みんな仲良く」とか「ゆずり合い、助け合い」とか、あるいは「一致団結」だとか、理念は分かるのですが評価しにくいものばかりです。しかしそれを見越して長続きする学級目標を置いておられる先生ももちろんたくさんおられます。そのことに気づいたときには、私自身はもう担任教師をやめていましたから、自身の話ではありません。
 では、今から間に合う目標はどこあるのか――。

 学校には独自の「学校教育目標」というものがあり、国には学校の在り方を規定する学校教育法という法律もあります。しかし明確な指示を与えてくれるものではありません。ところが教育基本法まで遡ると、そこにはこんな時に思いう浮かべるべき大切な文言があるのです。
第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

 もちろんこれを児童生徒にナマで当てても「?」で終わってしまいますが、教師の方はこの落ち着いた時期に、もう一度考えてみることができます。
 教育は本来何をすべきものなのか――子どもたちの立場からすれば、なぜ学校に来なくてはならないのか、学校で学ぶ意味、勉学に励まなければならない理由、当番活動や児童生徒会で頑張らなくてはならないわけ――一括りでいうと「何のために勉強をするのか」ということです。それについて子どもとともに考え、考えさせ、理解させ、それを子どもらしい言葉で納得して、心に納めさせなくてはなりません。
 
 

【何のために勉強するのかに統一的な答えはない】

 何のために勉強をするのか――古今東西、何千万人もの子どもと親と教師が考え続け、統一的な答えの見つからなかった難問です。しかしそれには理由があります。
 いくら考えても答えの出ない難問というのは、「答えがない」か「答えがたくさんある」問題なのです。「自分は何のために生まれてきたのか」は前者()で、「何のために勉強するのか」は後者です。
*ボールペンや橋や自動車と違って、たいていの動植物、特に人間は、目的があって生まれてくるのではありません。

 例えばのちに社会科の教師になった私にとって、小中学校の社会科は大いに役立つものでした。絶対に必要な勉強だったと言えます。しかし「二次元方程式の解の公式」が何の役に立ったのかというと、たぶん知らなくても人生になんの痛痒もなかったことでしょう。世の中には「解の公式」を覚えていなかったら今の仕事には就けなかったという人も、たくさんいるはずですが、私は違ったのです。
 音楽・美術鑑賞と読書を趣味としましたから、私にとって音楽と美術・国語の勉強をしたことは大いに役立ちました。しかし理科は、知的好奇心を満足させるという意味では部分的に必要でしたが、全部をやることはなかったと思います。

 そんなふうに、勉強の役立ち方は個々別々ですから「何のために勉強するのか」に統一的な答えを得ることは不可能で、しかもたいていの場合は結果論です。それが「何のために勉強するか」を考える上で、最初に押さえておくべき点です。統一的な答えはないのです。

 ところが、副次的ながら、ほぼ全員にあてはまる「勉強する意味」というものもあります。それは、いま学んでいることが誰かの役に立ち、誰かを助けることができるかもしれないから勉強するというものです。

(この稿、続く)