カイト・カフェ

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「これだけブラックが叫ばれても、土曜授業がなくならない」~東京が変わらなければこの国は変わらない①

 久しぶりに娘を訪ねたが、教師の婿は出勤日だった。
 東京ではいまだに土曜日の授業が行われている。
 それでも学校が回っていくのだから東京は大丈夫。
 ということは日本中の学校も変わらないということだ。

という話。  

f:id:kite-cafe:20211025120900j:plain(写真:フォトAC)

 

 

【エージュは土曜日も仕事】

 土日の二日間を使って一泊で東京の娘の家に行ってきました。3月の第2回緊急事態宣言解除後に行ったきり、7か月ぶりになります。4月から転勤で東京に戻ってきている息子のアキュラも来てくれて、久しぶりの一家団欒となりました。娘シーナの二人の子どもは、6歳の孫のハーヴはまだしも、2歳になったばかりの下のイーツはすっかり成長して言葉もずいぶんわかるようになってしまいました。

 「なってしまいました」というのは子どもの成長の一番面白い最初の3年間の大部分を、新型コロナのために見逃してきたからです。
 私たちがいくと聞いて前日は「やったー!」と大騒ぎをしたと言いますが、兄に合わせただけのことで、だれが来るのか分かってもいないようすだったと言います。仕方ありません。

 娘のシーナもずいぶん喜んでくれて、「ちょうどよかった土曜日はワンオペ(一人育児)なので困っていたところなの」とのこと、聞けば父親で小学校教師のエージュは今月2回目の土曜授業。忘れていたのですが、東京都下の公立学校では今も月1~2回の土曜授業をやっているのです(回数は区市町村によって異なる)。
 私としては「まだやっていたのか」という感じですが、もちろん昭和時代から引き続きやっていたわけでないことは分かっています。

 

 

週休二日制が始まったころ】

 若い人は知らないと思いますが、かつて日本の労働者の労働時間は1日8時間、週48時間までと規定されていました。正確に言えば1947(昭和22)年の労働基準法で定められ、およそ40年間続いた制度です。ただし明治時代以来、土曜日の労働は半日という習慣をもった職場もあり(これを半ドンという)、実際に1日8時間で週6日ときちんと働いていたわけではありません。学校も土曜日は半日日課で、午前の授業を終えると給食を食べて帰宅するのが常でした。

 もちろん労働界からは欧米並みの週休二日制を望む声が早くから出ていましたが、高度成長からオイルショックを経てバブル経済へと向かう時代、景気が良くても悪くても、長時間働くことで経済の国際的有利さを守ろうという力はいっこうに衰えなかったのです。

 ところが1980年代になって強すぎる日本経済に対して、特にアメリカから「日本人のようには働けない」という強い不満と圧力が加えられるようになります。
 輸入制限などの圧力に屈した政府は、やむなく1988(昭和63)年4月、労働時間短縮を骨子とする改正労働基準法を施行して1週40時間労働が規定さました。公務員もこの年から変則的ながら4週6日という形の週休二日制が始まります。ところが学校は主として土曜日の子どもの受け皿がないことを理由に、そうはならなかったのです。

 古い先生方は覚えておられるかもしれませんが、学校は週6日開いていて先生たちも出勤してくるのに、事務の先生や校務員の先生は1週おきに休まなくてはならないという変な時代でした。教師も公務員ですからとうぜん週40時間に縛られますから、余計に働いた土曜日分は夏休みなどにまとめ取りしました。今でいう「変形労働時間制」の先取りです。それなのに「教師は公務員なのに夏休みの間じゅう学校を休んでいる」と悪く言われたのもこの時代でした。

 

 

【学校五日制の始まりと同時改変】

 ところが働けば働くほど儲かる時代に、週休二日制はなかなか定着していきません。一方、欧米の圧力はさらに強まる――。そこで政府が思いついたのが「学校を土曜休みにしてしまう」という必殺技です。子どもが土曜日、終日ウチでウロウロしているという状況に、親たちは耐えられないだろうと踏んだのです。

 政府・自民党は1992年から政府省庁の役人および地方公務員を週休二日にするとともに、なんと年度途中の9月から学校にも月一度の土曜休を導入してしまいました。学習指導要領も改訂しない中での急な変更で、これには長年週休二日を訴えてきた日教組でさえ反対したほどです。しかし政策事態はまんまと成功し、企業は主にパート従業員を確保するために週休二日制に移行せざるを得なくなったのです。

 学校五日制はその後1995(平成7)年4月から月2回となり、2002(平成14)年4月より完全五日制となりました。他の公務員よりちょうど10年遅れてのことです。それとともに、授業日数が減ったことに合わせて新しい教育観が提示され、学習指導要領も改訂されます。それがあの悪名高い「ゆとり教育」です。

 いまとなれば大谷翔平羽生結弦を生み出したかもしれないと再評価されつつありますが、当時の反応は凄まじく、「円周率が3になる」とか「みんなで手をつないでゴールする徒競争」といったデマに踊らされ、危機感をもった人々は「先生たちが楽をするための“ゆとり教育”か」と批判の狼煙を上げたのです。当時の石原東京都知事もその一人でした。

 

 

【東京都が大丈夫な限りは、日本の教育は変わらない】

 石原慎太郎都知事が日本の教育に及ぼした影響は、もっと考察されてしかるべきだと私は思っています。「都立4大学廃止と新大学構想」にしても「都立高校の学区廃止」にしても、悪影響は今日まで及んでいます。

 義務教育の範囲で言えば、副校長や主幹教諭を配して学校職員をピラミッド型に改編する組織改革や、2004年から始まった中学2年生を対象とする統一学力テスト、2011年からの土曜授業の復活などは、そののち全国に広まりました。もちろん全国学力学習状況調査のようにきちんと位置づけられたものもあれば、職員の組織改編や土曜授業のように法的に風穴を空けたものの、数としてはあまり広がらなかったものまでいろいろあります。しかしとにかく東京の変化は全国を動かすということだけは明らかでした。

 私は先に、「(土曜授業を)まだやっていたのか」と書きましたが、まだ続いていたという事実はこの20年余り、都の教育行政が本質的に変わらずに済んだことを表しています。教員の労働環境のブラック化がいくら叫ばれても、現状を変えずに済む条件が東京にはある、そして東京都が大丈夫である限り、日本全国の教員の待遇が変わらず続く可能性があるのです。

(この稿、続く)