カイト・カフェ

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「競技場には魔物がいる」~東京2020オリンピック・メモ②

 13歳のゴールド・メダリストが誕生した。
 競技場には魔物がいて、しばしば人の運命を好き勝手に動かすようだ。
 それが苦しいこともあれば、失敗が面白すぎる場合もある。

という話。

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(写真:フォトAC) 
 
 

【13歳の金メダリスト】

 いよいよ13歳10カ月のゴールド・メダリスト誕生だそうで、まずはおめでとうございますと言っておきましょう。メダリストは少年少女に夢を与えると言ったりしますが、13歳では身近過ぎて、世の中を舐めるような子どもが続出しても困るなあなどと余計なことを考えたりもしています。もちろん冗談です。

 他のアスリートたちが臥薪嘗胆・精励刻苦する中でようやくたどり着く高みに、おそらく楽しんで面白がっているうちにたどり着いてしまったのでしょう。西矢さんが破るまで記録を持っていた競泳の岩崎恭子さんが、ゴールのタッチパネルを叩いて顔を上げたときのびっくりしたような表情が思い出されます。
 もっともあれから30年近く過ぎた今も、岩崎さんが世間から注目され、しばしば私生活まで監視され暴かれている事実を考えると、西矢椛さんの臥薪嘗胆はこれから始まるかもしれません。
 親御さんの喜びも緊張も、ひとしおかと思います。どうかいま以上に大切にお育ていただきたいと思います。
 
 

【競技場には魔物がいる】

 岩崎恭子さんや西矢椛選手が思わぬ金メダルを獲得したように、参加者全員が爪先立ってギリギリを競うような場面では、予想だにしなかったことが次々と起こります。
 先日取り上げた三宅宏実さんの試技直後の感想は
「まさか最後にこれ?」
だったそうですが、レジェンド内村航平選手の鉄棒落下や、自ら「メダルは99・9%確実」といっていた瀬戸大也選手の予選落ちなども同じです。

 外国選手に視野を広げれば、これも昨日取り上げた前回リオデジャネイロの女子柔道52kg級覇者、コソボのマイリンダ・ケルメンディ選手も、金メダル候補といわれながら初戦で敗退してしまいました。女子クレー射撃スキートの世界ランキング一位の選手は、それどころか東京に来てから新型コロナ陽性と判定されて棄権せざるをえなくなり、あるいはそもそも参加資格がなかったことを東京で知らされ、本国に戻らざるを得なくなったポーランドの競泳選手たちもいます。

 ここだけは避けたい、今だけは勘弁してくれと言いたくなる場面で、そのことは起こる――。
 日本の高校野球には「甲子園には魔物がいる」という言葉がありますが、オリンピックの会場にも、魔物が無数、徘徊しているようです。
 あとはその魔物と出会ったときの身の処し方です。

 その点で特に注目したのは内村航平選手でした。鉄棒の予選で落下した直後にネットニュースでは、本人の弁として「ふがいない」とか、鉄棒の代表枠を争って退けた後輩アスリートに「土下座して詫びたい」といったネガティブな発言が流れていましたが、翌朝の新聞を見るとこんな言葉も記録されています。
「これだけやってきてもまだ分からないこと、失敗することがあるんだなあと思うと、面白さしかない」
 前夜見た「土下座して詫びたい」といったしおらしさとは、打って変わったさばさばとした雰囲気――ある意味で清々しいといった感じさえします。
 
 

【私も知っているあの爽快さ】

 失敗したにもかかわらず体の内からあふれてくる笑い、さわやかさ、というものについて、規模は遥かに小さいながら、私にも幾度か経験があります。それは研究授業の場で起こります。

 研究授業というのは、いわば教員が協力して一つの理想的な授業を組み立て、
「どうやら普通の公立学校でも、ここまではやれそうだぞ、がんばれ」
と見本を示すようなもので、そのために教師は半年以上(足掛けで言えば数年)をかけて取り組む研究の発表会のようなものです。

 最終的には授業を見てもらって評価を受けるのですが、専門の教員ばかりのまな板に乗るわけですから、気合も半端ではありません。
 子どもたちにどういう資料を見せるのか、どういう反応がありそうか、期待する反応が出なかったら二の矢をどう討つのか、二の矢も外れたらどうするのか――。たった一時間の授業のために数十時間、時には数百時間もかけて検討し、計画案を書きます。

 その計画書を「指導案」というのですが、紙に書かれた数十倍が頭に入っていないと、実際の授業では躓いてしまいます。一種の心理の読みあいですから、私はこの「指導案づくり」がとても好きで、指導案のためならいくらでも時間が使えると思った時期もありました。

 ところがとんでもなく時間をかけ、根を詰めてつくったはずの指導案でも、生徒の信じられないひとことで軽く吹き飛んでしまうことがあるのです。“信じられない”が「論理的でない」とか「的外れ」といったことなら対処の用意もありますが、実に見事に論理的につながってたりすると、その鮮やかさに笑うしかなくなるのです。実に清々しく笑える――。
 何で、私は、その可能性に気づかなかったのか

 どんな仕事も失敗を喜べないようでは長続きしません。しかし「喜べる失敗」は中途半端な追求からは出てこないのです。
 失敗の可能性を潰して、潰して、潰して、潰して、潰した先で改めて全体を見回して「もうどこにも失敗の可能性はないと」確信し、その上で一番重要な時にいきなり現れる“魔物”――かくれんぼうで見つかったときのような、鬼ごっこで逃げ切れなかったような、あの不思議な爽快感が湧き上がってくるのはそんなときです。

 内村航平選手、何となく引退しないような気がします。