カミュの『ペスト』に関するテレビ番組を見た。
そして考えたのは、当たり前のことだが、
人は誠実であるべきだということだ。
今からでも遅くない、自らの仕事に誠実に努めて行こう。
「ペストと戦う唯一の方法は、誠実さ」なのだから。
というお話。
(「マスクと消毒液」フォトACより)
【カミュの『ペスト』】
畑仕事や庭仕事が忙しい時期なのに、やたらとサボってテレビの情報番組ばかり見ていたのが、民放の情報番組とネットニュースは見ないと決心してからは思った以上に時間ができてしまい、そこで行ったのが疎かになっていた読書と、溜めたままになっていたVTRの視聴です。
昨日はNHK/Eテレで土曜日に放送した「100分de名著:カミュ『ペスト』」を観ました。2018年6月に放送したものの4回分を、一挙再放送したのです。
もちろん今回のコロナ禍を意識してのことですが、現在『ペスト』は多くの書店で文庫本のベストセラー1位に躍り上がっており、ネットショップでも購入できません。 カミュは、カフカやドストエフスキーとともに私が若いころ最も夢中になって読んだ作家のひとりです。しかし日ごろはすっかり忘れていて、本棚を気にすることもありません。
ところが今回カミュに関する番組を見て、その中で『ペスト』の重要な節をいくつか紹介されているうちに、自分がカミュにどれほど影響されていたか、今でも心の底にどれほどしっかりと根を下ろしているか知って、改めて驚いています。
当時の私は神経質で年じゅう思い詰めているような――ひとことで言えばとても面倒くさい男の子で、一方で自分の能力にとんでもなく過大な期待を寄せ、他方でその期待の大きさに怯えてひとりで震えているような子でした。
自分には才能がある、しかし世の中にはとんでもない博識や才能がウジャウジャいて、彼らの前には全く歯が立たないかもしれない、そんなふうに考えていたわけです。
自ら招いたある種の四面楚歌で、それがペストで封鎖された町の心象とよく合ったのかもしれません。
【ほんとうに語るべき話を持っている人々は語らない。多くはマスメディアに呼ばれない】
私は半分正しく、半分間違っていました。
「世の中にはとんでもない博識や才能がウジャウジャいる」のは確かですが、その人たちが全員、陽のあたる場所にいるわけではなく、目立つところにいるのはむしろ浅学菲才のハッタリ屋、もしくは多少の誇張や非科学、推論・偏向は許されると考える人々です。
私は今回の新型コロナ禍の中でたくさんの情報番組を見、かなりの量のネット記事を読んできました。そして最終的に理解したのは、ほんとうに貴重な考えを持っている人たちは黙して語らない、少なくとも問われるまでは発言することはない、ということです。
新型コロナウイルスについて、ほんとうに分かっていることは「分かっていることがあまりにも少ない」ということです。
私は新型コロナの致死率に、ついてたくさんの数字を見てきました。
若い人は発症しない、もしくは発症しても軽症で済むという話も聞きました。
罹患者の8割は他人にうつすことはないという話もありました。
PCR検査があまりにも少ない、もっとたくさんすべきだと突き上げる人々もいました。
(岩手県知事もそうした突き上げに合いましたが、知事としても誰に検査をしたらよいのかわからず困ったことでしょうね。感染者ゼロの状態で濃厚接触者など見つけようがないからです)
韓国の防疫体制を見習え、という話もありました。
しかしそれが真似のできるものかどうか、調べて語る人は少なくとも目立つ場所にはいませんでした。
韓国と並んで準戦時態勢にある台湾、イスラエル、これらの国・地域が感染に強いことをきちんと説明できる人も、マスメディアでは語っていません。メディアにとって必要のない人たちだからです。
フランスの医療体制を見習えという長い記事を読んだことがあります。ドイツは完璧だといった文章も読みました。スウェーデンを見習えという人もいます。
しかしそれらはすべて今も新型コロナと戦っている国々です。先のことは分かりません。今の時点で賞賛したり、ましてや慌てて同じことを始めたりするのは危険です。
日本は大丈夫だという話もたくさん聞きました。
10万人あたりの病床数はドイツに匹敵し、医師の数も単位人数あたりでは韓国に等しい、だから心配はない――。しかしその人はいったん新型コロナ感染と診断された患者が、恐ろしく長い期間、病院から出られない可能性について考えなかったのでしょう。
今月14日の段階で、ダイヤモンド・プリンセスの乗客で今も入院中の患者が15人もいるのだそうです。それくらいたいへんな病気なのです。
これまでに退院できた人が900人少々、そこに新規の感染者が毎日500人以上かぶさって来るのですから医療崩壊直前といわれるのも当然です。
【踊る人々と誠実な仕事】
そんなことは前々から分かっていて、感染の専門家たちは以前から狂ったように警鐘を打ち鳴らしていたのです。それを聞きながら、ほとんどの人たちは無視を決め込んでいました。私自身も“いくら何でもそれはないだろう”とタカをくくっていました。聞きたくない話に耳をふさぎ、心地よい話ばかりに耳を傾けていたのです。
1月~2月にかけて、国会の主たる議題は「モリカケ」「桜を見る会」で、新型コロナに関して真剣な討議が行われた記憶がありません。
大規模感染に対する準備はほんとうにできているのか、病床や医療機器、医師や看護師の確保はどれくらいできいているのか、それは確認したのか、検査体制はどうなっているのか、PCR検査を行わないことの合理的な説明をしてほしい等々、必要な議論は山ほどあったはずです。
首相も政府も不誠実でしたが、野党も不誠実でした。大切なことを横に置いて、政局にならない、追い詰めきれないとわかっていることをいつまでもいじるのは、単なる嫌がらせでしかありません。
まさかカミュの『ペスト』に出てくるオランの町の人々が、オペラに興じて現実逃避をしていたように、モリカケや桜に逃げ込んでいたわけでないでしょう。それなのに、私たちはいったい何をしていたのか――。
しかし私は思うのです。
今からでもできることがある、さあそれを個々誠実に果たしていこう――と。
Eテレの「100分de名著」の中で、焦点をあてて私の記憶を呼び覚ませてくれた『ペスト』の重要な一節がありました。それは登場人物のひとりランベールが、英雄的な活動を続ける主人公の医師リウーに語りかける場面です。
「ところが、あなたは一個の観念のためには死ねるんです。その様子が目に見えるようですよ。でも僕は、観念のために死ぬ連中にはもううんざりなんです。僕はヒロイズムを信じません。英雄になるのは容易なことだと知っているし、それが人殺しをおこなうことだと分かったからです」
それに対してリウーはこう応えます。
「今回の災厄では、ヒロイズムは問題じゃないんです。問題は、誠実さということです。こんな考えは笑われるかもしれないが、ペストと戦う唯一の方法は、誠実さです」
「誠実さって、どういうことです?」
とランベールは急に真剣な顔になって尋ねた。
「一般的にはどういうことか知りません。しかし、私の場合は、自分の仕事を果たすことだと思っています」
今の私にとって果たすべき仕事というのは外に出ないことくらいでしょう。畑仕事や庭仕事は問題なさそうですから“外に出ない”もそう難しいことではありません。しかし県外に住む娘や息子、孫たちと会わないことも仕事(義務)だとして、それが半年・1年と続くなら、私にとってそれはかなりしんどい仕事だと言えます。