「死の勝利」〜ひとの生き方と死に方 4

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ピーテル・ブリューゲル(父)「死の勝利」)

 

【不可解な提案】

 胆管がんの権威から言われた「まず黄疸を消してから、そのあと抗がん剤治療を始めましょう」という言葉は義姉に希望と勇気を与えます。さらに言えば自身の力で調べ、渡りをつけ、勝ち取った成果ですから高揚感も少なくありませんでした。

 しかしそれを聞いた私は、少なからぬ衝撃を感じていたのです。姉のがんを聞いてから一年以上、たとえネット情報ばかりだとはいえ、胆管がんについては調べつくした気持ちでいたからです。

 

 実績のある抗がん剤についてはすでに1年近く前に効かなくなっています。全国の治験(治療の臨床試験)一覧も確認しましたが、胆管がんを対象とした新薬の研究というのもありません。それをこの段になって、まだ可能な抗がん剤治療というのはどういうものなのか、全く想像できなかったのです。

 同じ疑問は当然、地元の病院の医師たちももちます。しかし相手はこの病気の権威なのです。何か特別なことがあるのかもしれない――。

 

 一週間後、新しいステントを入れるために東京に向かう義姉に対して、地元の医師たちも「どういう治療をするのか、よく聞いてきてくださいね」と丁寧に送り出してくれます。

 

 

【杖を失う】

 しかしやはりそれは何かの間違いだったのです。

 東京での二度目の診察は“権威”の部下に当たる医師たちに引き継がれていました。医師たちは地元の病院から託された多くの書類を精査し、前の週に撮ったCT画像などを見ながら、もう新たなステントの入れられる状況でないことを説明します。

 

 残された方法は多くありません。その中から「経皮経肝胆道ドレナージ」という方法が選択され勧められます。これは脇の下から直接肝臓に管を差し込み胆汁を体外に排出する方法で、これだと毎日採集される胆汁の量から肝機能の観察ができますし、管が詰まった場合、繰り返し掃除ができますからもう黄疸の心配はいりません。

 

 実は地元の病院でも強く勧められていたのですが、ガーゼ交換・消毒といった手間が面倒なことや胆汁を入れておくパックを吊り下げていなければならないこと、そして何よりも入浴ができなくなるということで義姉が頑として受け付けなかったものです。

 

 しかし今度は国内最高の“権威”のいる病院です。そこで宣告されれば選択の余地はありません。義姉はしぶしぶ受け入れ、さらに一歩階段を降りて病人らしいさを増すことになります。

 これで黄疸は大いに緩和されるはずだと言われて、それではとばかりに抗がん剤の治療はいつから始めるのかと訊ねると、医師は“その話は聞いていない。抗がん剤の治療はできない。それは去年の6月ですでに終了しているはずだ”と説明します。

 国内最高の“権威”いる病院の宣告です。これも受け入れざるをえません。

 

 

【自宅に帰る】

 黄疸が消えてから抗がん剤治療を始めるという話がほんとうにあったかどうか、今となっては確かめようがありません。

 

 ”権威”が義姉を「がんに罹ってから初めて病院というところにきた患者」と勘違いした可能性もないわけではありません。胆管がんの多くは黄疸が出て初めて発見されますから、その場合は「まず黄疸を消してから、そのあと抗がん剤治療を始めましょう」が普通の流れになります。

 あるいはそうではなく、義姉たちが“権威”の長い長い話の中から、都合の良い部分だけをつぎ足してそうした理解になった可能性もあります。

 しかしいずれにしろ、義姉は希望の杖を失い、胆汁パックを肩から下げて迎えに来た息子の自家用車で自宅に戻ってきました。

 それから二十日ほどは穏やかな日々を過ごしていたようです。

 

 私は義姉の病気が奈辺にあるのか分からなくなっていました。すでに「奇跡の人」でないことは理解していましたが、胆汁が体外に排出されて肝臓の腫れも引いたせいか、黄疸が消えていくとともに一時少なくなった食欲も戻ってきました。ひどく痩せ始めたとか足がむくみ始めたとか、がんの末期についてよく聞く症状はまったく出てきません。

 

 また、宣告からすでに1年9カ月。私はこの病気で2年間生き残ったら死なないと思っていましたから1年9カ月は理解できない年月です。あと3か月以内に亡くなるとはとても思えないのですが、それを越えて完全に治ってしまうとも考えられません。

 

 ただし大雑把な見通しは分かります。

 このあとがん性悪液質によって腹水が溜まり始める、腹水との戦いがしばらく続く、やがて意識の混濁が始まって一日の大半を穏やかに、半分眠りながら過ごす。そして静かに亡くなる。

 その時間を、私たちは少しでも気持ちよく過ごさせたい、そんなふうに見通しをもっていました。

 

 

【最後の入院、最後の夢】

 7月に入ってまた、義姉は地元の病院に何度目かの入院をします。聞けば発熱と何とも言えない気分の悪さのためだと言います。何のことか分からないので週末を待って見舞いに行くと、胸水と腹水が溜まり始めたということでした。いよいよです。

 

 ただし義姉はまだ諦めていなかったようで、「ドレナージ」後の一か月検診で“権威”の医師に診てもらうことに大きな期待をかけていました。あわよくばそのまま東京の病院に入院してしまおうという腹もあったようです。とにかく日本一の医師です。何か持っているに違いない。そんなふうに考えていたのかもしれません。

 

 東京へは民間救急タクシーで出かけました。私は内心“そんな大げさな”と思ったのですが、当日びっくりしたのは病室からストレッチャーに乗せられてそのまま車に乗り込んだことです。もうタクシー乗り場まで歩くのもつらい状況だったのです。

 

 そうした症状の進展は東京の病院でも予想外だったようで、家族は医師から「こんな状況で東京まで連れてくるなんて」と半ば非難されたと言います。入院させてほしいと言っても「できる治療がない」と遠回しに拒否されます。

「一か月以内に意識が混濁して眠る時間が長くなります。このままだと余命は一か月か二か月、そんなふうにお考え下さい」

 入院となれば家族もホテル住まいですから1カ月以上はなかなか耐えられるものではありません。幸い送り出してくれた病院が引き受けてもいいと言ってくれたので、義姉はまた、長い長い距離を空しく救急タクシーで帰ってくることになりました。

 

 

【あっけない死】

 余命は1〜2カ月と言われて私たちはなんとなく1カ月は保つと考えていました。

 医師の伝える余命は、「同じ症状の患者の生存期間の中央値だ(短い人から長い人まで並べて真ん中の人が亡くなるまでの期間)」という話がありますが、私の印象だと短めにいう医師が多いようです。

 「余命三カ月」と宣告して一か月で亡くなれば家族の中に医療事故を疑う人も出てくるかもしれません。しかし「余命一カ月」と宣告して三か月生きれば感謝されます。

「余命半年と言われたのに1年以上も長く生きしました」

といった話はむしろ多いくらいです。

 

 そんな思い込みから私は1か月が保障されたように思っていたのですが、わずか半月後に義姉は亡くなってしまいました。

 東京まで長い車旅を往復したのがいけなかったのかもしれません。痛みに弱い人で、最後は「もっと強い薬を」と要求し続け、それが心臓を弱らせたのかもしれません。

 いずれにしろ、その最期はあまりにもあっけないものでした。

 

                            (この稿、続く)