(写真はイメージ)
【日本のサポーターがまたやった】
昨日のフットボールチャンネルに「日本代表サポから広がる“ゴミ拾いの輪”。ウルグアイサポも『日本人から学んだ』」【ロシアW杯】という記事が出ていました。
それによると現地時間20日に行われたワールドカップ「ウルグア・サウジアラビア戦」で試合後、ウルグアイのサポーターがゴミ拾いを行なったそうです。セネガル・ポーランド戦でも試合後、セネガルのサポーターが清掃活動を行なったといいます。
ウルグアイのサポーターは「日本人からアイデアを盗んだわけではないけど、何事も努力しなければならないことを学んだ」と語り、日本人の活動に刺激を受けたことを明かしている。
うれしいですよね。
また一昨日はBBCニュースジャパンには「【サッカーW杯】日本のサポーターがまたやった 試合後のごみ拾い 」という記事もありました。
19日、W杯ロシア大会での初戦で日本代表はコロンビアを2対1で下し、南アメリカのチームに初めて勝利した。日本のファンには狂喜乱舞する十分な理由があった。
しかし日本代表がグラウンドでコロンビア代表をきれいに片付けた後、ファンも同じことをした。自分たちが座っていたスタジアムの座席を念入りに掃除し始めたのだ。
粋な書き出しです。
そしてこうした日本人サポータの姿を称賛するツイッター記事やBBCのインタビュー記事をいくつか紹介しています。
英国人のクリストファー・マケイグさんはツイッターで「今のところW杯で一番好きな場面は、日本がコロンビアに勝った後、日本のファンがごみを拾っていたこと。この試合で私たちが学べること。日本を応援する理由」と話した。
在トリニダーゴ・トバゴ・カナダ大使館のレスリー・アン・ボワッセイユさんも、「日本のファンが、W杯の試合後に座っていたところを掃除している。すばらしいお手本。なんて素晴らしい! よくやった日本」と書いた。
等々。
では日本人サポーターのこうしたお行儀の良さはいつごろから注目されるようになったのか。
実は日本が初めてサッカーワルドカップに出場した1998年のフランス大会以来なのです。つまり最初からずっとそうだったわけです。
【チケットはないがエチケットはある】
この話は私の持ちネタの中でも最も好きなもののひとつで、4年に1度ずつ、つまりワールドカップのある年ごとに書いているのですが――。
フランス大会では初出場ということもあって日本人サポーターが大挙して押しかけるはずだったのに、チケットが届かないという事態が発生しました。それが事の起こりです。
枚数が不足したというのではなく、さまざまな事情で送付されなかったのです。
*参考Wikipedia「1998 FIFAワールドカップ」中段「チケット問題」
それでも一縷の望みをもって渡仏したサポーターもかなりいて、かれらは現地で路頭に迷うことになります。責任を感じた開催地では急遽パブリックビューイングを用意して食事まで提供してくれたのですが、肝心の試合の方は三戦全敗。結局散々な思いで帰ってくることになります。しかしそれでも日本人です。
そんな状況にあっても日本人サポーターは対戦相手へのエールや試合前後の国際交流、会場の清掃と、マナーの面で際立った姿を見せることを忘れなかったのです。サッカー観戦は大暴れするところと心得ているヨーロッパ人には新鮮だったのでしょう。翌日の新聞に載った見出しがこうです。
「日本人、チケットはないが、エチケットはある」
【なぜそうなったのか】
サッカーにおける試合後の自主的清掃活動は新潟アルビレックスに始まるという話を聞いたことがありますが、組織的なものはそうであっても基本的には昔からそんなに汚くはなかったはずです。サッカーばかりでなく、野球場だってコンサート会場だって駅だって、普通の道路ですらごみが散乱している様子は見たことがありません。
大リーグでも大谷翔平くんは他の選手同様ダックアウトでヒマワリの種かなんかをクチャクチャやっていますが、その左手には紙コップが握られていて、噛み終えた種はそこに吐き出されます。他の選手は種どころか使った紙コップまで床に捨てているというのに――。
なぜ日本人はそうなのか。
これについては先のBBCの記事に続きがあります。
「サッカーの試合後の掃除は、学校で習った基本的な習慣の延長だ。子どもたちは教室や廊下を掃除する」と、大阪大学のスコット・ノース人間科学教授は説明する。
「幼少時代に定期的に覚えこまされることで、多くの日本人の習慣になっている」
(中略)
ノース教授は、「日本のサポーターは掃除とリサイクルの必要性を高く意識しているだけでない。W杯のようなイベントで実践することで、自分たちの生き方への誇りを形にして示し、我々とシェアしている」と指摘した。
「責任感をもって地球を守る必要性を表明するのに、W杯以上の場所はない」
もちろん日本の優秀な保護者が教えている側面も無視できません。母親たちはしばしばバッグの中にゴミを入れるための小袋を用意しています。しかし「自分の使った場所は自分できれいにするものだ」と組織的に教えているのは、幼稚園・保育園そして学校だけでしょう。
まだ物心つかない幼少期から園の掃除の真似事をさせられ、遠足の先では周囲を見回してゴミがないか確認させられる、そんな生活を15年も繰り返せば、応援席に飲み食いしたものを置いて帰る図太さはまず身につかないものです。どうしても片づけたくなる。そもそも片づけられる程度にしか物を手にしない、そうなって当然です。
【私たちがそうした日本人を育てた】
教員だったころ、私は胸を張って若い先生たちにそう言い続け、学校における清掃指導の大切さを訴えてきました。学校の清掃は、予算がなくて清掃員が雇えないから子どもにやらせているというものではありません。それは伝統的な日本式修行なのです。
お寺だって神社だって一日は清掃から始まります。柔道も剣道も、およそ「道」とつくスポーツで清掃をしない競技など考えられません。落語でも職人の世界でも、弟子が最初に教えられるのが掃除です。
日本人はすべての学びの基礎に清掃を置き、その中から真の学習は立ち上がってくると考えました。学校教育もそうした伝統の上に立ち、今、その成果を世界に知らしめているのです。
日本人サポーターが始めた試合後の清掃活動はウルグアイやセネガルのサポーターよって真似され、さらに広がり、もしかしらサッカーの世界標準となっていくかもしれません。そうなったらもう、フーリガンなど出てきようがありません。
【しかしその一方で】
ところが本家の日本は、今、そうした美風を失おうとしています。
2020年の新指導要領実施に向けて、各小学校ではプログラミング教育や英語教育の時間をどう生み出すかで必死になっています。週1授業時間(45分)の英語教育はもう日課の中に入りようがありません。そこで3分割4分割してどこかに差し込もうとするのですが、そこで狙われているのが清掃の時間です。
「掃除なんて一日おきでもいいじゃないか」という考え方は案外歴史が古くて、私も20年ほど前、視察に出かけた県外の学校の日課表の中に発見してびっくりしたことがあります。しかし実際、美しく保つということだけであれば週一回だってかまわないのです。普通の家庭だって週一回できれば十分なくらいですから。
ただしそこにはもう「清掃は修行だ」という思想のカケラもありません。
やがて小学校英語のおかげで英語が堪能となった日本人は、外国人とワールドカップ会場でペットボトルや食べかけのハンバーガーを投げ合い、堂々の英語で丁々発止のやりとりをしているのかもしれません。
それも長い歴史をもった世界標準ですから、それでいいという考え方もあるでしょう。
世界に通用する日本人、フーリガンと戦える日本人!
私はまったく感心しませんけど。