カイト・カフェ

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「チャップリンの誕生日」〜偉大な演説の系譜

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【正義の国アメリカ】

 初めて小学校低学年の担任になったとき、「コリャかなわんわ」と思ったのは、とにかく言うことに飾りがない、あけすけ、あからさま、ということです。
 例えば、友だちに意地悪をしたというような話で指導をする場合、「どうしてそんなことをするの?」と聞けば、これが中学生だったらあれこれ理由や言い訳をつけてくるのでツッコミどころも生まれるのですが、小学校低学年だとそうはなりません。
 たったひとこと、
「だって嫌いなんだモン」
――これでは取り付く島もありません。

 国際政治で言えば、
「どうして他人の領土に手を出そうとするの?」
と訊ねて、
「それは我が国の核心的利益だからだ」
と返されてしまうようなものです。

「我が国の重要な利益だから譲れない」というのはどの国にとっても外交の出発点ですが、「しかし大のおとなが、国際政治の場でそんなあけすけな言い方するのかよ?」というのが私の素直な気持ちなのです。もう少しカッコウをつけてもよさそうなものではありませんか。

 その点でアメリカ合衆国は、トランプさんが出てくるまでは、いつも正義の仮面を被る国でした。何か動き出そうというとき、そこには必ず正義の旗印があったのです。
 歴代の大統領は常に正義を掲げ、大言壮語し、自分が打ち上げた正義のために身動きがとれなくなることがあっても、その旗をおろすことはしませんでした。

 誤解のないように言っておきますが、アメリカだって欲の深い、わがままで身勝手な、欲望のとりこみたいな国です。しかしそれをいきなり表に出したりはしない、相当に胡散臭い屁理屈をつけても、一応“正義”ふりをするのです。
 要は表面上の違いですが、それでも私はアメリカのそういうところが好きでした。なぜならその旗印がある限り、義に反することがあれば「それは違う」と糾弾できたからです。正義を掲げるというのは、そうしたリスクを背負うことです。

【高潔な演説の国】

 アメリカは正義の国ですので、世にいう「名演説」もこの国から多く輩出しています。
 ぱっと思いつくだけでも、「人民の、人民による、人民のための政治」と語ったリンカーン大統領の「ゲティスバーグ演説」、ジョン・F・ケネディの「大統領就任演説」、あるいはつい先ごろ(4月4日)、暗殺50周年追悼行事の行われたマーチン・ルーサー・キング牧師の「私には夢がある」などがそれです。

 ただしそうは言っても、有名な割には中身まで十分に知られていない面もあって、たとえば、
アメリカ国民の皆さん、国があなたに何をするかを問うのではなく、あなたが国に何ができるかを自問してください」
と国民に詰め寄るケネディの就任演説が、なぜあれほど有名で大切にされるのか、
「私には夢がある」
といったキング牧師の“夢”とは何だったのか、案外知られていません(*1)

 チャーリー・チャップリンの映画、「独裁者」の最後で繰り広げられる“演説”も、格調が高く優れたものとしてつとに有名ですが、何しろあの早口で滔々とまくし立てる演説を字幕で追ってもまるでついていけません。
 何だか分からないけどすごいことを言っている、素晴らしい理念が語られていると、映画を鑑賞する上ではそれでもいいのですが、やはり一度、きちんと目を通しておくといいでしょう(*2)

 今日、4月16日はチャールズ・チャップリンの誕生日だそうです。1889年、日本では大日本帝国憲法の発布された年です(明治22年)。
 思い出したので、「私には夢がある」の一部とともに、「独裁者」の演説は全文を下に残しておきます。リンクはともにYoutube動画です。

 

【「私には夢がある」ー「独裁者」】

*1「私には夢がある」

www.youtube.com キング牧師は演説の中でいくつもの夢を羅列的に述べています。どれも素晴らしいものですが、私の好きなのは下の三つです。

 私には夢があります。いつの日か、ジョージアの赤茶けた丘の上で、昔は奴隷だった人々の子孫と、昔は奴隷の所有者だった人々の子孫が、同胞のテーブルに一緒に座ることができるようになるという夢です。

 私には夢があります。いつの日か、私の4人の可愛い子供たちが、肌の色ではなく彼らの人柄の中身で評価される国に住むようになることです。

 私には夢があります。いつの日か、アラバマの都市部のような、悪意に満ちた人種差別者と、(中略)州知事がいる、そんなアラバマの都市部でも、いつの日か、かわいい黒人の男の子たちと女の子たちが、かわいい白人の男の子、女の子たちと、兄弟や姉妹として、手をつないだ輪へ一緒に加わることができるようになることです。



*2 「独裁者」におけるチャップリンの演説

www.youtube.com 申し訳ないが、私は皇帝になどなりたくありません。真っ平ごめんです。
 支配も征服もしたくない。できるなら、私はすべての人々の助けになりたいのです。ユダヤ人も異教徒も、黒人も白人も無関係に。
 私たちは皆、助け合いたいと思っているはずです。人間とはそういうものです。私たちはお互いの幸福によっていきたいのです。お互いの不幸によってではありません。
 憎み合ったり見下し合ったりしたくないのです。この世界にはすべての人々を受け入れる力があります。大地は豊かで、皆に恵みを与えてくれます。

 人生は自由で美しい。しかし私たちは進むべき道を見失ってしまったのです。欲が人々の精神をむしばみ、憎しみが世界を分断し、軍靴の歩みによって私たちを苦難と殺戮に追い込もうとしています。
 私たちは移動の速度を発達させつつ、逆に私たち自身をその中へ閉じ込められてしまっています。

 人類の知識は私たちを利己的にし、知恵は無情で不寛容なものへとなってきています。私たちは考えばかりを巡らして感じることを忘れています。私たちに必要なのは機械化ではなく人間性なのです。賢さよりも、優しさと思い遣りこそ必要とされています。
 こうした本質が忘れられてしまうと、人生は暴力的なものになり、いずれすべてが失われるでしょう。

 飛行機やラジオは私たちのお互いの距離を近づけてくれています。しかし人間の良心や連帯といったものを欠けば、これらの発明の意味は発揮されません。
 何百万人という、絶望の中にいる男性たち、女性たち、そして幼い子供たち、この人々は人間を拷問にかけ無実の人々を投獄するシステムの被害者なのです。

 この声を聞いている人々へ、私は伝えたい。希望を失ってはならない。今、私たちを覆っている苦難は、人類の本当の発展を恐れる人々の貪欲さや敵意が生み出した一過性のものなのです。人間の憎しみはやがて去り、そして独裁者たちは死ぬはずです。そして彼らが人民から奪い取った権力は、再び人民の手に戻ることになります。
 そして人類が絶滅しない限り、自由が絶滅することは決してないでしょう。

 兵士諸君、君たち自身を残酷な輩に委ねるのはやめなさい。彼らは諸君を見下し、奴隷にし、諸君の生活を統制して、諸君らが何を行い、何を考え、何を感じるべきなのかいちいち口出しし、諸君らを調教して折檻を加え、諸君らを家畜のように扱って兵器の部品として利用する輩なのです。君たち自身をあんな非人間的で、機械のような無血な心、無血な精神を持った異常な無血人間に委ねてはなりません。
 君たちは機械ではないし、家畜ではない。人間なのです。君たちの心の中には、人間性と愛情が備わっています。君たちは憎しみを抱いてはいけないし、愛がなければ憎しみだけが残り、そして不自然さだけが残ってしまいます。

 兵士諸君、彼らの奴隷として戦うのをやめ、自由のために戦うべきです。
 ルカの福音書第17節に「神の国は人々の中に存在する」とあります。それは一人の特定の人間ではなく、特定の集団に属する人々でもなく、すべての人々、そしてあなた自身の中に存在するということです。

 皆さん、人民は力を持っています。それは機械を創造し、幸せを作り出す力です。あなた方人民は力を持っています。その生活を豊かで美しいものにし、その人生を素晴らしい冒険にする力をです。民主主義の名の下に、この力を行使しようではありませんか。

 みんなで団結し、新しい世界のために戦おうではありませんか。
 みんなで団結し、健全な世界――人々に勤労の機会が与えられ、若者には将来の希望が、そして高齢者には社会保障が施される世界――の創造のために戦いましょう。

 これらの政策の実施を公約することで、暴君たちもまたその権力を手に入れてきました。しかし彼らは嘘をついているのです。彼らがその公約を実行することはありません。決してありえません。独裁者たちは自分たちを義務から免れさせ、人民を奴隷化するだけです。

 今こそ、私たちがこれらの公約を実現するため、共に戦いましょう。
 世界から障壁をなくし、貪欲さをなくし、憎しみや不寛容を根絶するため、共に戦おうではありませんか。そして理性による世界、科学や発展が全ての人々を 幸せに導く世界のために、共に戦いましょう。
 兵士諸君、今こそ民主主義の名の下に、団結しましょう。