カイト・カフェ

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「有人宇宙飛行はじまりの日」〜地球は青かった

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 明日、4月12日は人類が初めて宇宙を飛んだ記念日です。

 1961年4月12日、ソビエト連邦の宇宙飛行士ユーリー・ガガーリンを乗せたボストーク3KA-2号は発射後まもなく地球周回軌道に入り、大気圏外を1時間50分弱で1周してソ連領内の牧場に帰還しました。当初は宇宙船と共にパラシュートで着地したとされましたが、実際は高度7000mで座席ごとカプセルから打ち出され、一人パラシュートで降下するという極めて危険なやり方だったのです。
 そのため長く、「ガガーリンは初めての宇宙飛行士ではなく、過去2名が宇宙に飛び出したがいずれも帰還時に死亡したため、発表に至らなかった」といったうわさが流れました。

 ガガーリンの残した言葉として有名なのは「地球は青かった」ですが、これと、欧米ではむしろこちらの方が有名な「神はいなかった」くらいしか残っていません。世界各国でインタビューを受けるガガーリンの口からはロクな答えが返ってこず、彼自身、宇宙旅行について語ることを嫌ったからです。
 無理もありません。人類初の宇宙飛行士と言ってもいわば大砲の弾丸に埋め込まれたまま、何ひとつすることなく地球を1周して戻っただけだったからです。犬でやってみたら成功したので次はヒトでやってみた、実験のレベルはその程度のものでした。語るべきなにごともなかったのです。
 そもそもガガーリンが最初の宇宙飛行士に選ばれた理由のひとつも、ロシア人としては極めて小柄な159cmという身長にあったのです。そのサイズでないとカプセルには入れませんでしたから。
 また彼の名がユーリーという親しみ易いもので、しかも労働者階級の出身であるということはソビエト社会主義共和国連邦の広告塔として至極都合の良いものでした。ガガーリンはその命も含め、徹頭徹尾、政府に利用されつくしたのです。

 それを知ってか、宇宙からの帰還後、生活は乱れ、酒におぼれ、自傷行為も繰り返すようになったと言います。そして1968年3月、原因不明の飛行機事故によってガガーリンは亡くなります。享年わずか34歳でした。

アメリカの逆襲】

 ガガーリンの宇宙飛行にショックを受けたのはアメリカでした。NASAガガーリンから一か月足らずの1961年5月5日、アラン・シェパードを宇宙に送り出してかろうじて面目を保ちますが、実際には今で言う「ロフテッド軌道」で行って帰ってきたにすぎず、地球1周を果たすまでになお1年2カ月の時間が必要でした。
(アラン・シェパードは10年ののち、アポロ14号に船長として参加し、月面に降り立った5人目の人類となります。)

 有人飛行でソ連に先を越されアメリカは、同じ5月、怒りに任せてアポロ計画を発表し、「1960年代のうちに月に人類を立たせる」と豪語して、実際に1969年7月20日、アポロ11号が月に人類を送り込んでしまいました。
 ガガーリンからわずか8年後のことです。

 私たちが、21世紀になったら誰もが背広で宇宙に行ける(1968年アメリカ映画「2001年宇宙の旅」)と信じたのも、無理がないほどの発展速度だったのです。
 これで宇宙開発においてアメリカは完全にソ連に水をあけることに成功しました。

 ちなみに明日4月12日は、アメリカがスペースシャトル第1号機を発射させた日でもあります(1981)。
 ガガーリンに完全に勝ったぞと、ダメを押したくてこの日を選んだのかもしれません。