カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「子どもたちに、お経も教えておけばよかった」〜柴崎コウとサボサボ・モラモラ

f:id:kite-cafe:20200111191156j:plain

 NHK大河ドラマは子どものころの「赤穂浪士」からかれこれ50年近くも見続けているのですが、今回の「おんな城主直虎」は特に気に入らない作品で、最近は見落とすことも多くなっています。
 何が気に入らないのかというと、まず主人公が愚かすぎて話にならない。素晴らしくよく勘が働いたかと思ったらとんでもなくつまらないミスを犯す、情に流されて家臣の足を引っ張る、特に一国の主だった者が盗賊の頭と駆け落ちを考えるなど、愚かにもほどがある、というか明らかに脚本がふざけている。

 ふざけていると言えば毎回のサブタイトル、「恩賞の彼方に」「長篠に立てる柵」「この玄関の片隅で」「井伊を共に去りぬ」はいちいちご丁寧に名作映画のダジャレで、そもそもそんなおふざけをする意味が分からない。

 そして何より腹が立つのが、細かな心理描写の必要な部分を、すべて言葉にしてしまう点です。
「もしや、そなたは〇〇ではなかったのか?」
――登場人物の深謀遠慮・感情の機微など、いちいち説明せずに描写で分からせるのが映像芸術じゃないかと、そんなふうにイライラさせられるのです。
 これでは視聴率も下がるはずです。

 もちろん役者さんに罪のある話ではなく主演の柴崎コウさんをはじめ、みなさま好演はしているのですが、何しろセリフが薄っぺらなので演技まで軽薄な感じになってしまいます。

 柴崎コウさんの直虎についていえばしばらく前、幼馴染で盟友だった小野政次の死を悼んで「観音経」を読む場面があったのですが、それは実に美しい、ほんとうに素晴らしい、なんとも言えずすごい演技だったのです。しかしひとたび振り返ってみるて、果たして読経というのはそれでいいのか、そんなふうにアレンジしていいものかという根本的な疑問もわいてきます。

 いずれにしろ現存の歴史的事実があまりも少なく、創作を挿入しやすいという事情があり、それを濫用しての好き勝手だ、と憤っていたのです・・・(それなら見るな!)。

【父の七回忌で教えられたこと】

 一昨日(土曜日)、父の七回忌で臨済宗の住職に来ていただきました。
 般若心経と観音経、そしてもうひとつのお経(経典名は失念)を読んでいただいた後、少しお話がありました。その中で、木魚や鉦を持ち歩かなくなって久しい、余計な音や道具もなく、本当に読むだけの読経、歌うように美しい読経がやりたいものだということでした。そして「おんな城主直虎」の話になり、あの柴崎コウの読経こそが今の理想だ、という話になって私もびっくりしたのです。

 聞くと住職のおっしゃるには、臨済宗には臨済宗の教えられた読経のやり方がある、しかし宗派によって違いがあるということは読経に絶対的な規範があるわけではない、自分が木魚や鉦を使わないように、供養の気持ちがきちんとしていれば、むしろそれぞれにあるべき姿の読経を求めて読むのが正しいことではないか――そういうことでした。

 お歳に似合わずこれまでも様々に斬新な試みをしてきた方なので、ほんとうにそれでいいのかどうかは分かりませんが、これでお経がすっと私の元に近づいてきたことには間違いありません。
 大きな声ではできませんが、柴崎コウ流の「観音経」(ページの下の方で音声を聞くことができます)、私も口ずさんでみようかな、と思いました。
 

【少し後悔】

 それにしても教員時代、なぜ子どもたちにお経のことを教えなかったのかと、今更ながら後悔しています。宗教の絡む内容ですので、扱いに神経質にならざるを得なかったのす。
 しかしこの国に生まれ、この国で生きていく以上、子どもたちも将来、いく度となく葬儀に立ち会い、あの長い長いお経に付き合うことになります。そのたびに退屈に苦しみ、眠気に苦しみ、油断してウツラウツラしているといきなり「喝――ッ!!」と叫ばれて椅子から転げ落ちそうになる、そういうことがないように、大雑把な話だけでもしておいて、興味のある子にはそれとなく水を向ける――そんなふうにしておけばよかったのです。

 「お経」について私の知るところは以前にも書きました。kite-cafe.hatenablog.com したがって繰り返しませんが、要するにお経というのは釈迦の教えを漢文で書いたもので、漢語に置き換えられなかった部分(多くは概念として中国になかったもの)は古代インド語(梵語サンスクリット)のまま音写されているのでさらに分かりにくくなったものです。

 妙な抑揚をつけて読まれるのは、正確に暗唱し伝承するためで、その意味では古代ギリシャ叙事詩イーリアス」「オデッセイア」や、イスラム教のコーラン、琵琶法師の「平家物語」と同じ考えです。

 経典の数はちょっと調べただけでも気の遠くなるような分量ですが、葬式についてだけ言えば、だいたい「般若心経」「観音経」を少し勉強しておけば用が足ります。前者は「色即是空 空即是色(しきそくぜくう くうそくぜしき)」、後者は「念彼観音力(ねんぴかんのんりき)」で知られるお経です。

 「色即是空 空即是色」は「この世にあるすべてのものは因と縁によって存在しているだけで、その本質は空であるということ。また、その空がそのままこの世に存在するすべてのものの姿である」という意味でかなり哲学的な話になりますが、葬儀の席で人生の虚しさ、形のなさに思いを致すのは良いことでしょう。

 「念彼観音力」は「観音経」の中で13回繰り返されることばで「観音様のお力を念じれば」という意味です。観音様のお力を念じれば救われる13の状況、例えば「燃えさかる火の穴に落とされても」とか「大海を漂流して龍・鬼に襲われても」あるいは「悪人に山の頂から落とされても」、観音様のお力を念じれば必ず救われる、といった教えになります。
 ですからテストなどで困ったら心の中で「念彼観音力」と唱えれば、もしかしたら答えが浮かんでくるかもしれません。
 お葬式の最中、私は13回指を折って数え、大体どこまで進んだかを想像しています。基本は漢文ですから、あらかじめ勉強しておけば聞いていても何となく内容を思い出せるのです。

【サボサボ・モラモラ】

 ところでつい二週間ほど前、96歳で亡くなった叔父の葬儀に出席して、初めて聞くわけの分からないお経に少し戸惑い、少し笑ってしまいました。
 ナンジャ、コリャ?といった感じです。
 何しろ聞こえてくるのが、
「フジサートー サボサボ モラモラ モキモキ」
なのですから。

 ここまで訳の分からないのはたいてい、サンスクリットの発音ですべてを唱える「陀羅尼(だらに)」と呼ばれる呪文またはお経です。
 家に帰って調べたら「大悲心陀羅尼(だいひしんだらに)」と呼ばれる経典で、禅宗では広く読誦される基本的なものだそうです。
 基本的な経典なのに知らなかったわけで、どんな場合も知ったかぶって偉そうな顔をしてはいけないと、改めて思った次第です。