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「明治時代を支えた少女たち」〜富岡製糸場と横田英②

 映画「紅い襷」の主人公横田英(よこた えい)は実在の女性で、17歳の時から1年3か月、富岡製糸場で工女として働き、後年「富岡日記」を書いて草創期の製糸場の様子を生き生きと伝えた人です。
「富岡日記」は現在ちくま書房から文庫本で出版されているほか、著作権切れのためネット上でも閲覧できます。

【富岡へ】

 それによると英の父親は信州松代藩の高級藩士で、維新後は松代の区長(町長)をしていた人です。元高級藩士といっても松代自体が小藩でしたから、さほど裕福だったわけではありません。
 明治6年、父親のもとに県から指示が来ます。
「信州は養蚕が最も盛んな国であるから、一区に付き何人(たしか一区に付き十六人)十三歳より二十五歳までの女子を富岡製糸場へ出すべし」(「富岡日記」より)  

 富岡製糸場については噂がすでに松代まで届いていたようで、行けば娘たちは外国人から血を抜かれ油をとられるといった物騒な話があり、なかなか応募者が集まらない。
「区長さんのところに年ごろの娘がいるのに出そうとしないのが何よりの証拠だ」
と言い出す者までいて、父親は仕方なく娘を出すことにしたのです。
 親は泣く泣くといったところでしたが英という娘は不思議な子で、悪い噂などどこ吹く風、喜び勇んで「一人でも行く」と言う始末――。けれど結局、横田家から娘が出たということで瞬く間に16人の定員は満たされ、物語はそこから始まります。

【案外豊かな工女の生活】

 大正時代の有名なルポルタージュ女工哀史」や、映画にもなった「ああ野麦峠」のおかげで製糸工場の工女というと劣悪な環境下で死ぬまで働かされたといった印象になりますが、そうではありません。

ああ野麦峠」について言えば、岐阜県飛騨地方の山奥から長野県岡谷市の製糸場に行った娘たちにとって、労働の過酷さと言えば飛騨も岡谷も変わりないのです。違うのは製糸場では飯が腹いっぱい食え、しっかり技術を学んで腕を上げれば家一軒分の賃金を一年間で稼ぎ出す「百円工女」になることも夢ではなかったことです。

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ああ野麦峠」に当時の工女300人の聞き取り調査の結果が出ていますが、「食事がまずい」と答えた人も「賃金が低い」という人もいません。糸の検査はつらかったようですが、「労働が苦しかった」と答えた人はわずか3%、全体の9割が「行ってよかった」と答えています。
女工哀史」の方は悲惨な描写が多いようですが、こちらは製糸場ではなく紡績工場の話ですので事情は違っていたのかもしれません。


富岡製糸場の生活】

ああ野麦峠」は明治時代後期の民間企業の話ですが、明治5年、国家が威信をかけての建設した官営工場となるとさらに条件は良かったようです。

 横田英が働きに出た当時はまだフランス人の指導者が入っていましたからすべてがフランス式で、労働時間は1日約8時間、週休1日、さらに夏冬には各10日間の休暇がありました。
 給与は月給制で一等工女25円、二等工女18円、三等工女、12円、等外工女9円。それとは別に作業服代として夏冬それぞれ5円が支給されます。小学校の教員や警察官の初任給が8〜9円の時代ですから破格の厚遇ということ言えます。
 しかも食費や寮費は製糸場が負担していましたから、給与は全額自分のもの。もちろん英たちも最後には一等工女になっています。

「富岡日記」の中には工女を含む職員全員(総勢700人ほど)で花見に行く場面が出てきますが、工女は12〜13歳から25〜26歳の妙齢な年ごろ、しかも一日中日光に当たらず、風呂にも毎日入っているので色が白く、実に美しい。
 フランス人技術指導者は化粧も女性の嗜みと奨励し、寮の中には欧米からの香水や化粧品を売る店もあったので、少女たちは常におしゃれに余念がありませんでした。
 その様子は「富岡日記」にも、
「日に焼けて真っ黒な人は一人もいません(中略)町の婦人とはとてもくらべものになりません」
と誇らしげに書いてあります。

【松代に帰る】

 1年3カ月の研修の後、英は一通りの技術を身に着けて仲間14名とともに松代に帰ることになります(2名は病気等のために先に帰郷)。父が仲間を募って地元につくった製糸場が完成し、そこで働くとともに技術指導にあたるためです。

 数日をかけて県境を越え、明日は松代に入るという日、
「本陣で、風呂をわかしてもらい、めいめい湯に入り、髪を結いました。上手に結うことの出来る人は、何人もの髪を結ってやり、富岡仕込みの厚化粧をしました」
と、ここでもおしゃれに余念がありません。

 さらに“お国入り”の際には、付き添いの3人分を含む17台の人力車を押し立て(松代町内だけでは数が足りないので、近隣の町村からかき集めた)、それを見ようと多くの見物人が集まったと言います。
 完全な凱旋パレードです。

 地域の殖産興業と少女たちに対する大きな期待がうかがわれるエピソードです。

【「富岡日記」と「紅い襷」】

「富岡日記」を読む限り、横田英という人は非常に明るく前向きで、何にでも一生懸命になれる人です。また時代は日本が近代化へと大きく一歩を踏み出したころであり、その最大の拠点が富岡製糸場です。そうなると映画「赤い襷」が暗いものになるはずがありません。
 楽しみですね(と書きながら、残念ながら上映館は今のところ、ごくごく限られているみたいです)
群馬県 10月7日(土)〜ユナイテッド・シネマ前橋★ 10月7日初日舞台挨拶決定 群馬県 10月7日(土)〜イオンシネマ高崎★ 10月7日初日舞台挨拶決定 東京都 12月2日(土)〜12月14日(木)渋谷シネパレス★ 愛知県 12月9日(土)〜 名演小劇場★ 愛媛県 平成30年1月8日(月)西条市総合文化会館 大ホール  北海道 平成30年3月17日(土)上土幌町生涯学習センター・視聴覚ホール

 その後、英は父の作った製糸場の指導者として後進を育てることに専心し、6年後退社して軍人の妻になります。
 富岡製糸場の生活を描いた「富岡日記」、そのあと松代で民間製糸場の指導に当たったころのことを書いた「富岡後記」は晩年の著作です。

 また自身が子どものころ、母親からどういう躾を受けたかをまとめた「我母之躾(わがははのしつけ)」という著作もあり、江戸末期から明治初期にかけて、地方の高級武士の家ではどういう教育が行われていたかを知る一級の資料となっています。私もこのブログで何回か扱っています(我母之躾(わが はは の しつけ) - カイト・カフェ) 。

 ちなみに横田家では、英の二人の弟がそれぞれ大審院長(現在の最高裁長官)、鉄道大臣となり、甥も一人が最高裁長官になっています。
 やはり、よほどきちんと育てられていたのでしょうね。