私の母は料理が苦手で、私が子どものころは年がら年中「今日は何を食べたい?」と聞くような人でした。
大人になってから気がついたのですが、料理なんて献立が決まったところで半分は終わったようなもので、要するに母はその段階からダメだったわけです。
一方、聞かれた私の方も好き嫌いの多いわがまま息子で、そもそも料理に何の興味もありませんからついつい「カレー」だの「ラーメン」だの、「とんかつ」「チャーハン」「オムライス」と、昔で言う「デパート・メニュー」が中心となり、さっぱりバリエーションが広がりません。
それでは当然好き嫌い問題は解消しない。それで大人になってからはほんとうに困りました。
魚介類が苦手、野菜が嫌い、酢の物がダメとなると宴会などでは食べるものがないのです。酒も強くないので会費の8割くらいはムダにして、そのうえ腹を空かせて帰ってきます。そんな馬鹿なことはありません。
【なんでも食べられるようになる】
そこで結婚する時、妻にはこんな話をしました。
「『今日何が食べたい?』とか『明日、何にする』とかいったことは絶対に訊かないでほしい。その代わり出されたものは必ず何でも食べる(ホルモンなどの内蔵系以外は)」
妻は約束を守ってくれて以後30年近くたった今日も、献立について尋ねるということは一切なく私も黙って食べ続けました。おかげで世の中のものはたいてい食べられるようになりました(内蔵系以外)。しかもおいしくいただけるようになったのです。
【味が分かるようになるのは難しい】
ただし「何でも食べられること」と「おいしく食べられること」、「楽しく食べられること」は全部違います。私は「何でもおいしく食べられる」段階にいますが、これって味が分かっていないということですよね?
食材が良くても悪くても、味付けがどんなふうであっても、でき立てであろうがなかろうが冷めきっていようが、「おいしく食べられる」わけですから。
(もちろん伸びきったラーメンとか傷んで匂いはじめた刺身までおいしいとは言いませんが)
「食は三代かかる」と言いますから私一代で「違いのわかる男」になり、食を楽しもうとも思いません。しかしまったく分からないと不便な場合もあって、たまには妻の料理を誉めてやろうとしてもいちいち外す。手の込んだ料理を誉めないくせに買ってきてそのまま出した総菜を誉めてしまう、昨日出た同じものを今日初めて感動して誉めそやす、しまいには妻も呆れて、
「もう何も言わなくていいから――」。
先日はカウンター越しに時間をかけて魚を煮込んでいる様子が見えたので、ここは誉め処だと思って、「アジの煮つけ」を誉めたらこれは当たりだった――。
当たりだったのはいいのですが、ホルモンだのレバーだのといった内蔵系の苦手な私は魚を頭からぼりぼり食べることだって得意ではなく、しかし以後、繰り返しこの「アジの煮つけ」が出てきて、毎回嬉しそうな表情で食べるのがやや苦痛になってきています。
【加齢風調味料】(変換ミスではありません)
だいぶ横道に逸れましたが、「何でもおいしく食べられる」ようになったのには、もちろん妻の料理上手や食わず嫌いを克服した私の努力もあったのですが、それと同時に、年齢による舌の変化というものもあったのではないのかと思います(これが本題です)。
例えば子どものころ酢の物が苦手だった背景には、とにかくすっぱすぎるものを口に入れると背筋が凍るように震えた、そういう記憶から逃れられなかった事情があります。それが大人になると消えた。
逆に甘いものに対する耐性というか親和性は弱まって、饅頭なら一個食べれば十分。昔は大好きだったどら焼きも二個食べると胸焼けがしそうです。
総じて苦い・辛い・渋いといった味に対する反応が齢とともに鈍くなって、味覚全体がこじんまりと丸くなり、食べ物が口の中で極端に反応するということがなくなったような気がするのです。
考えてみると世の中、調理をする人はたいていが大人です。家庭では親、街ではプロの料理人。
彼らは基本的に自分の舌を信じて調理しますから、どうしても大人仕様になってしまう。子ども向けにつくってもやはり少しずれる。少しずつ「大人が好みそうな味」へと偏差がかかる、そんなふうではないでしょうか。
つまり大人になるほど「おいしく食べられるものが増える」のは当然なのです。(この稿続く)