「誰が子どもの歯をボロボロにしたのか」〜虫歯治療のジレンマ

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 まだ教員になりたての頃、研究授業で訊ねた田舎の中学校の教室で、後ろの掲示板に「うしの数」という模造紙に書いた汚いグラフが貼ってあったことがありました。
 さすが山の学校、牛の数が話題になるのかと思いながら、中学校なのになぜ「牛」がひらがななのか、そもそも家で飼っている牛の数をグラフにすることに何の意味があるのか(まさかどこかの新興国のように牛の数が“富”を表していて自慢しているわけでもないだろう)と、首を傾げたものです。
 「うし」は「齲歯」、つまり虫歯のことで、グラフは治療を急ぐよう促すためのものだったと知ったのは、ずいぶんのちのことでした。

 昔の教室はこうしたグラフがいくつも貼ってありました。
「忘れ物グラフ」「宿題ノート未提出グラフ」「漢字テスト総得点グラフ」「マラソン・グラフ」・・・。
 私は忘れ物や未提出で棒を伸ばし、漢字テストやマラソンでは逆に短いチャンピオングループの一員でしたのでよく覚えています。

 現在はどこの学校のどの教室へ行ってもそうした表やグラフは見かけません。個人の能力差を明らかにしたリ辱めたりする掲示は、人権を考える上で問題があるとして遠ざけられているからです。
 しかしそれで困ることもあります。

【虫歯だらけの世代】

 私の両親は若いころ虫歯というものがほとんどなく、年齢を経てから爆発的に数を増やして最後は口の中が崩壊状態になった人たちです(母は生きていますが)。
 若いころは甘いものをほとんど食べることができず、だからこそ歯磨き習慣はなく、長じて生活が豊かになり甘いものを食べるようになっても歯磨きなどしなかったためにそうなったのです。

 彼らの子どもである私たちは、生まれながら甘いものに恵まれていたにもかかわらず適切な歯磨き指導を受けることがなかった世代です。そのため小さなのころから虫歯だらけという子が大勢います。歯の治療にかけた金は、私でもおそらく100万円は下りません。すでに総入れ歯になった友人の一人はなかなか入れ歯が合わず、50歳を過ぎてから使った金だけで車が買えると言っていました。
 散々ひどい目に遭った私たちの多くは自分の子どもに歯にとても神経質で、もっとも熱心に歯磨きをした世代といえます。そして教師である私は、クラスの子どもの歯に対しても神経質でした。
 

【進まない歯科治療】

 風邪や腹痛なら“我慢して放っておいたら治ってしまった”とか“自然治癒した”ということもありますが虫歯だけはそういうことはありません。放っておけば必ず悪化します。
 さらに歯科検診でC1と診断された虫歯など、歯医者に一、二度かかればそれで終わってしまいます。治療費だってほとんどかかりません。
 ですから虫歯のある子は何としても歯医者に行かせたかった――ところがこれが案外難しかったのです。

 「要治療」の勧告書が渡された家庭のうち、およそ半数は十日以内に“治療済み”の証明書を持ってきます。それから3週間以内、都合一か月以内に残りの半分の半分、つまり4分の1程度が治療を済ませます。しかし放っておくと最後の4分の1からは証明書が出てきません。そもそも勧告書が親の手元に届いていない場合だってあるのです(カバンの中)。
 

【歯医者に行かせるお粗末な手立て】

 私は学校の事務仕事がきちんとできるような人間ではありません。大切なこともどんどん忘れてしまいます。ですから誰が治療を済ませて誰がまだ行ってないか、そういったこは「うしの数」のようなグラフに頼るべき人間なのです。しかし時はすでに公の表示を許さない時代に変わっていました。他校で「うしの数グラフ」にびっくりしたのも、自分の赴任校ではとっくにやめていたからなのです。

 困った私は教卓の隅に、目立たないように紙を貼って、そこに勧告書の出た生徒の名前と歯科医に行く日にちを書き、朝の会のたびに、
「○○〜(当時は呼び捨て)、きのう、歯医者に行く日だったけど、行ったか?」
と訊き、行ったと言うと、
「次はいつ来いって言われた?」
と尋ね、答えられた期日を記入する、そういうことを繰り返しました。
 もちろん貧乏な家の子も、子どもの健康に無関心な家の子もいるのは承知していました。けれど貧乏だから行くのをやめましょうという話ではないでしょう。親が無関心なら関心をもってもらわなくてはなりません。ですからこの件に関しては一切妥協せず容赦せず、だから私のクラスで未治療が残ることはまったくありませんでした。
 

【何に優しい時代なのだろう?】

 このことに関して私は一度も自慢したことはありません。そんなことをすれば必ず、

「他にもやり方があるでしょ? みんなの前でその都度名前を呼ぶなんて、子どもがかわいそうだとは思いません?」
みたいな話になりかねないからです。
 もちろん記録は自分の手帳内で行って毎回こっそり呼び出して確認すればいい、それだけの話です。けれどそれが私にはできない。
 私が忘れてしまうか忙しさのために呼び出す機会を失うか、そうこうしているうちに金曜日ごろ、
「先週の月曜日が治療日だったが行ったかぁ?」
 みたいなトボケた話になって治療が進みません。教師としての私の、それが限界なのです。

 さて先週の金曜日、神戸新聞NEXTに「子どもの虫歯二極化、口腔崩壊も 経済格差背景か」という記事が出ていました。

 それによると、
 2016年度に行われた歯科検診で、虫歯などが見つかり「要受診」とされた約3万5千人のうち、歯科の受診が確認できない児童・生徒が約2万3千人、65%に上ることが県保険医協会の調査で分かった。
ということなのです。しかも、
 未治療の虫歯が10本以上あるなど「口腔(こうくう)崩壊」の子どもがいる学校の割合も35%に上った

 乳歯の数は20本、永久歯は親知らずも入れて32本しかないのです。その中で10本も未治療の歯があるとなると、その子の将来は絶望的です。今なら数千円で済む話が、将来、車一台分払っても不都合なままということにもなりかねません。
 もしかしたら「うしの数」グラフの堂々と掲げられていた時代は、今ほど状況が悪くなかったのかもしれません。

 多くの子どもはグラフに書かれるのが嫌で親に「歯医者に連れてって」とせがんだに違いないからです。
 そういうことのまったく気にならない子もいますが、参観日などに来た親が気づいて対処してくれたりします。
 もちろん子も親も気にしない家庭というのも少数ながらあります。そういう家こそ、担任が本腰を上げて対処すべき家なのです。

 歯科の受診が確認できない児童・生徒が約2万3千人、65%
 家庭のことに学校は口を挟まないという人権的配慮、子どもに嫌な思いはさせないという優しさが、将来のその子の人権(健康で文化的な最低限度の生活を営む権利)をズタズタにする、そうしたジレンマに、学校は常にさらされています。