ゴールデンウィークが終わりました。普通の生活の再開です。
あまり意識されませんが以後、「国民の祝日」は7月の「海の日」(今年は7月17日)までありません。有名な「のび太の嫌いな6月」を挟んで丸二ケ月、土日以外の休日がないのです。
「全然休めない!」という言い方もできますし、前向きに考えれば「規則正しい生活が二か月も送れる」ということにもなります。いずれにしろ、文句を言ったところで今日明日すぐに変えられるものではありませんから、諦めて頑張りましょう。
さて先日、あるテレビ番組を見ていたら、極めて厳しい指導をされるというお琴の先生が出ていました。
その方がインタビューに答えて指導の方針やあり方を話されている最中、ある瞬間、まるで自分に言い聞かせるように強く、こうおっしゃったのです。
「(弟子に)恥をかかせたくない」
その厳しい言い方にびっくりするとともに、長く忘れていた「恥をかかせない」という価値観に少し心が震えました。
【教育の要諦】
私は長いこと、教育というのは自己実現の問題だと思っていました。
その子が持てる力を精一杯発揮し、願う未来を最大限に実現する、それが教育の意義であって、子どもの力をうまく引き出し育てるのが教師の仕事だと思っていたのです。
考えが変わったのが2011年の東日本大震災でした。
目の前で起こった未曽有の災害という体験(テレビを通してですが)を経て、私は人の役にたつ人間を育てたいと真剣に思うようになったのです。
それは教育基本法にある
(教育の目的)第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
に合致するものです。
しかしまたしばらくすると、それでもスッキリしないものがあるような気がしてきたました。
考えてみると「自己実現」という言葉がしっくりくるような生徒は、どこか意志的で芯のある子どもたちです。
例えば「一人前の寿司職人になる」と決めてそれを実現してしまうような子ですから生き方のエリートみたいな部分があるのです。
一方、「人の役に立つ人間」というのにも特別な匂いがします。
「世の中に人の役に立たない職業なんてない」といった観点からすればほとんどが「人の役に立つ人間」なのですが、それとは違って、自分や自分の生活を犠牲にまでも「人のために役に立つ生き方」となるとやはり特殊です。誰にでも期待できるようなものではありません。
そうではなくて、教師として、すべての子どもに最低限保障してやらなければならない教育というもがあって、私たちは無意識のうちにそれを理解していてしかも実践している、そういう教育的信念があるはずだと感じ始めたのです。
【恥をかかせたくない】〜そうだ、私が指導の端々で感じていたのはそういうことだった。
琴の師匠に話を戻せば、芸道として演奏者が持っていなければならない技量、素養、立ち振る舞い、心構え、所作、作法などには一定の枠と水準があり、いったん舞台に上がった瞬間から演奏者はそれを期待される、当然あるもののと前提される、それにもかかわらずなかったり水準以下だったりするとそれが恥になるのです。
芸道を離れて教育全般に広げると、日本は極端に道徳性の高い国家でしかも先進国ですから要求される道徳的・知的水準がハンパではありません。この国で「普通に生きている」というだけで、相当な知識や素養、道徳性があると思われる、そしてそれがないと恥ずかしい、恥をかくことになります。
自分のかつての教え子が「イギリス大陸ってどこにあるんですか?」とか訊いていたら教師は切腹しなければなりません。
教え子が電車から降りる際、飲み食いした紙袋や空き缶を床に置いて立ち去るのを見たら、担任はその場に手をついて他の乗客に土下座して謝らなければなりません。
その子は「恥をかく」どころか「恥を恥とも思っていない」のですから――と昔、そんなことを考えたことがありました。
あのころ「恥をかかせたくない」という言葉に注目していれば、もっと意識的に、もっとその子の現在や将来を慮り、もっとその子のために努力できたのかもしれない――今ごろになってそんなことを思いました。
「(教え子に)恥をかかせたくない」
これほど教師の愛を感じる言葉もそうはないのかもしれません。