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「ヤツは私たちの中のありふれたひとりなのか」~モンスター:津久井やまゆり園事件の話②

 神奈川県相模原市知的障害者施設「津久井やまゆり園」で起きた障害者殺人事件は、いまだに議論の俎上から降りることはありません。その間にさまざまな重大事件やオリンピックのといった大きなイベントを挟んだにもかかわらずです。新しい事件のために次々と古い事件が忘れられていく中で、極めて異例です。
 それはもちろん容疑者植松聖の特異な発言と行動が、極めて異常であるにもかかわらず私たちの心に鋭く問いかけてくるからです。
 オマエにも同じ意識はないのか――と。

 この挑発に乗って、多くの識者の論調は「彼をモンスターとして切り離してはならない」といった方向に進みます。そして“わが内なる植松聖”を探し始めます。

 ある人は言います。
「経済効率最優先の風潮の中で、人の価値は“いかに効率的に社会の役に立つか”で測られるようになっている。そうした観点からみると重度心身障害者は抹殺すべき存在となる」
 別のある人は
「異質なものへの嫌悪と恐怖。民族を差別するヘイト・スピーチと同質のものが底流にある。異質のものは排除しなければならにという狭量な社会の風潮が変わらない限り、この種の事件は繰り返し起こる」
 さらに別の人は、
「力へのあこがれ、万能感に対する渇望。自分が絶対的な力を持ちすべてを支配しようとする夢想。しかし現実社会では達成できないそれらを弱い者を潰すことによって代用しようとする」
 しかしそうした試みはすべて間違っていると私は思っています。
 どの人もそれぞれ自分が一番問題だと考える社会問題や青少年問題に結び付け、彼の犯罪を説明しようとしています。そうすることで問題が彼だけのものではないことを証明しようとします。しかしそうではない。

 経済効率優先の風潮など今に始まったものではありません。高度成長期からずっとそうでした。民族差別も今に始まったものではなく、力にあこがれる若者といったものもずっと昔からありました。それどころか昔のほうがもっと激しかった。

「障害者に対する目は昔よりずっと厳しくなった。重度心身障障害者を邪魔者扱いする風潮はずっと広がってきたような気がする」
 そうおっしゃった遺族もおられましたがそんなことはありません。私が子どものころの邪魔者扱いはもっとひどかった――。
 “障害者”という言葉自体が一般的ではなく、今では差別語として排された様々な言葉によって彼らは呼ばれていました。視覚障害者には視覚障害者の、聴覚障害者には聴覚障害者なりの、あるいはそれぞれの障害の種類や部位ごとに特別な差別語があって、その侮蔑的な表現は誰もが平気で使っていたのです。
 そうした差別用語をなくそうとする運動に対して私はかなり懐疑的だったのですが、今となればそれが正しい道だったことがわかります。
 概念がなければ言葉がない――例えば「もったいない」と物を惜しむ概念のない国には「もったいない」という言葉が存在しない。
 しかし言葉がなくなれば概念も失われます。様々な差別用語が使われなくなったことで、障害者に対する侮蔑・軽蔑はとんでもなく軽減されてきたことを私たちは覚えていなくてはなりません。

 確かに普通の生活をしている限り、なかなかすぐにそれとわかる障害者と出会う機会はありませんからたまに出会ったとき、凝視したり戸惑ったり、時には眉をしかめたり顔を背けたりといったことはあるかもしれませんが、それはほとんどの場合、不慣れや知識の不足によるものであって悪意であることはめったにありません。

 社会は確実に許容的で、暖かで、支持的なものになってます。したがって相模原事件が起こるべくして起こった事件ということもなければ、植松容疑者がたくさんの植松のなかの一人、ということもありません。彼は特別であって、皆無とは言わないまでも似た考えを持つ人は極めて少ないのです。その意味で彼はモンスターなのです。

 しかしそれでは彼はどこがどう違うのか、その件に関しては改めて考えてかねばなりません。

(この稿、続く)