収入がその人の労働の価値を決めるとしたら、最終年の私と比較して十数倍の年収を得る小島よしおは私の十数倍の価値を持つことになります(今の私と比較すれば、私はほとんど塵芥です)。
しかしいくら何でも毎日手かえ品かえあれこれ工夫をしながら授業をし、生徒の万引き指導から不登校までさまざまな生徒指導に腐心して、なおかつ部活に膨大な時間を費やす教員の仕事が、「そんなの関係ねぇ!」と叫びながら地面を殴りつける動作の10分の1、20分の1の価値しかないなどということはありえません。あってはならないことです。
それならなぜこれほどの差がつくのかというと、それは小島君の労働がそこに注ぎ込まれた時間やエネルギー、あるいは彼の生み出す価値によって測られるのではなく、需要と供給の関係によって測られるからです。
つまりみんなが彼のオッパッピーを観たいのにそれが供給できるのは小島君ひとりという極端なアンバランスのためなのです。極めて希少性が高くだから高騰する。もちろんオッパッピーは私にだってできますし実際にやってもいいのですが、それでは何の需要も喚起できません。それではただのおバカな初老、もしくは早すぎる痴ほうです。
年収1億円超というのは小島よしおの希少性についた値段であって、その芸術性だとか使用価値だとか交換価値といったものについたものではない、したがって需給のバランスが変化する――具体的には需要がなくなると、値段は一気に下がるはずです。そうやってあっという間に消えて行った“一発屋”は山ほどいます。
しかし1億円超を数年続けられるのなら“一発屋”だって十分じゃないか――そう考える向きもあるでしょう。テレビや舞台に引っ張りだこ、万民から期待され、凄まじいスポットライト、有名人に囲まれて、美人美酒、高級車に高級マンション、そんな生活が2〜3年も続けばそれで人生十分じゃないか――。
さて、ここでようやく問題です。
進路に関わる話の中で、子どもや孫、生徒の口からそういう話が出てきたらどう答えたらいいのでしょう?
「食えない芸人、生活できないミュージシャンはいくらでもいるよ、ずうっとアルバイトだけで生活している役者も山ほどいる」
ではだめでしょう。
スギちゃんだって永野だって下積みはメチャクチャ長かったのです。それでも一発当てれば膨大なお釣りが来ます。役者の中にも遅咲きの人はいくらでもいて、遅咲きの方が長く重宝に使われている例が多いくらいです。
「ボクは芸人になって小島よしおを目指します」
「私は綾瀬はるかになりたい」
そんな子どもの言い草にホイホイ乗ってはいけません。
世の中、顔のいい子もおしゃべりのうまい子も、歌の上手な子も芝居のできる子も、人を笑わせることに長けた子も、いくらでもいるのです。そうした才能を持ったうえで尋常ではない努力ができる子だってゴマンといます。その中で“売れる”のは、“一握り”どころか“一つまみ”。真に才能のあふれた子か運のいい子だけです。
もちろん目の前にいるその子(子や孫や生徒)が、才能や運の申し子ということもあります。しかし普通は、親や教師が最初の高いハードルとなって遮ってやらないと次のステップで小さな小石にも躓いてしまいます。
けれどハードルになるのではなく、ともに走ってその都度その子を押し上げるというやり方もあります。今回のオリンピックでも親子鷹のように二人三脚でメダルに手を伸ばした選手もたくさんいました。
しかしそうなると今度は親や教師の能力が問われます。
私たち全員が井村コーチやバドミントンの奥原希望、水泳の池江璃花子の親のようになれるわけではないのですから。
(この稿、続く)