「とと姉ちゃんとスピルバーグ」

 NHKの朝の連続ドラマ「とと姉ちゃん」を見るともなく見ています。というのは「あまちゃん」あたりから妻が録画したのを見るようになり、お相伴にあずかって私も眺めているからです。子どもが家を出てからは、夫婦共通のほとんど唯一の話題といった側面もあります。
 また見るともなく見ると言っても結構楽しめたり勉強になったりする面もあります。ドラマとしても感心することも少なくありません。
 ただし現在放送中の「とと姉ちゃん」はたいそうな高視聴率だそうですが、これがなかなか感心できないのです。

とと姉ちゃん」は雑誌「暮らしの手帳」を創刊した大橋姉妹と編集長の花森安治をモデルとするもので、エネルギッシュな女主人公と天才ともいえる奇人編集者が次々と新しい企画を起こして一世を風靡する出版物語といった感じのドラマです。
 ちょうど今は雑誌の発行が軌道に乗り、商品テストを行って結果を載せるという大胆な試みに挑戦している真っ最中です。毎週毎週ほんとうにたくさんの困難にぶち当たり、さまざまな苦難を経て乗り越えていくのですが、実はそれでも最近はむしろ落ち着いてきたのです。それ以前はもっと忙しかった――。
 4月の冒頭から、酔った社長に意味不明の抽象画をプレゼントされ、それに三女がクレヨンで手を加えたところ酔いの覚めた社長が返してくれと言い始める、それはとんでもなく高価な“名画”だったので父親は腹をくくって弁償することを考えるのだが、実は贋作だった――そんな他愛ない(現実味もない)話が毎週繰り返されるのです。
 突然現れた叔父が米櫃を空にしてしまったので運動会で一等賞の米俵を手に入れようとを母と二人三脚走の練習に励む、しかし競技直前に母が捻挫、代わりに出場した妹と一緒に走るのですが結局3位、しかし3位でも何升かの米はもらえる設定になっていたようです事なきを得る――毎回毎回「それがどうした」とチャチャを入れたくなるような内容です。

 エピソードが次々と消費されるのに対応して、登場人物たちも消費されます。
 三姉妹に対応する悪の三兄弟というのがいてこれが主人公の人生に絡んでくるかと思ったらまったく絡まない。一度消えたら二度と出てこない。
 東京に戻った主人公に商売の根本を教える祖母には大地真央という大女優を配するのですが、これが戦争中に疎開したまま帰ってこない。あとで亡くなっていたことが明かされるのですが、どんなふうに亡くなったのか、その家族はどうなったのかなどは一切分からない。
 一時期ものすごくお世話になった弁当屋の女将も、越谷だかどこかに店を移してそこで仕事を始めたことは分かっているのですが、その人が亡くなったことについて主人公一家は7年間も気づきません(恩知らず)。いかに戦争中とはいえ、連絡ぐらいは取っていてもよさそうなものなのに。
 私がいま気になっているのは主人公の叔父さんです。向井理が演じる風来坊のような人ですが最近さっぱり出てこない。向井理が演じるのですからもっと重要な役かと思ったら案外な小物だったようです。もしかしたらこれも祖母の大地真央弁当屋の女将のように「死んでいました」という話になるのかもしれません。

 つまりこのドラマは物語として破たんだらけ、ツッコミどころ満載なのです。
 しかしそれなにの視聴率は高く、評判は上々。

 どういう人が脚本を書いているのかと思ったら、「怪物くん」「妖怪人間ベム」を書いた人で(分かるような分からないような)あまり細部にはこだわらないということなのかもしれません。そして、私には理解できないのですが、毎週毎週面白くあることが物語の整合性よりも大切という視聴者が大勢いるということなのかもしれないのです(かく言う私の妻も熱心なファンです)。

 そんなふうに考えているうちに、私だってかつて、そんな破たんだらけの作品に夢中になった時代があったことを思い出しました。スティーブン・スピルバーグです。
未知との遭遇」はその極みで、デビルスタワーなんて日本人の私だって知っているのになぜアメリカ人が気がつかないのか、宇宙人の母船はなぜシャンデリアなのか、宇宙人はなぜあんなに弱っちい感じの、文明を一切感じさせない輩なのか、アメリカ政府はどうやって宇宙人の意図を知ったのか――そんなことを挙げたらきりがありません。けれど面白かった。好きだった。
 つまり「とと姉ちゃん」は私に合わなかった「未知との遭遇」はよく合ったというだけで、整合性などエンターテイメントでは大した問題ではないのかもしれません。
 そして(ここが大切なのですが)整合性に細かくこだわっていたら、スピルバーグは監督など続けておらず、ヒット作も生み出せなかったのかもしれないのです。
 彼にはやりたいことをやった、だからグイグイやった、グイグイやったからこそ面白かった、それだけのことなのかもしれません。
 「とと姉ちゃん」の脚本家もまだ40歳になったばかりの若い人です。こういう人には“とりあえず半年という長丁場を経験してもらう”ということこそ必要なのであって、あちこち追及して潰してはいけないのかもしれないのです。

 かつてこのブログに徒然草の第150段を載せたことがありますが、改めて引用しましょう。
 誠実な子どもにはぜひとも伝えたいことです。

(原文)
 能をつかむとする人、「よくせざらむ程は、なまじひに人に知られじ、内々よく習ひ得てさし出でたらむこそ、いと心にくからめ」と常にいふめれど、かくいふ人、一芸もならひ得ることなし。いまだ堅固かたほなるより、上手の中にまじりて、誹り笑はるゝにも恥ぢず、つれなくて過ぎてたしなむ人、天性その骨なけれども、道になづまず妄りにせずして、年を送れば、堪能の嗜まざるよりは、終に上手の位にいたり、徳たけ人に許されて、ならびなき名をうることなり。天下の物の上手といへども、はじめは不堪のきこえもあり、無下の瑕瑾もありき。されどもその人、道の掟正しく、これを重くして放埒せざれば、世の博士にて、万人の師となること、諸道かはるべからず。

(現代語訳)
 芸能を身につけようとする人で、「うまくできないうちは、なまじっか人に知られまい。内緒でよく練習したうえで人前に出るのが理想的である」と言う人があるけれども、こんなことを言う人は、一芸も習得できることはない。
 未熟なうちから、上手な人に交じって、笑われようとも恥ずかしがらず、平気で押し通して稽古に励む人は、生まれつきの才能がなくても、中途で休まず、練習を我流にせず何年も励んでいると、才能があっても芸にうちこまない人よりは、ついには上手の域に達し、人徳もそなわり、世間からも認められ名声をえるものである。

 天下に聞こえた芸能の達人といへども、はじめは下手との評判もあり、欠点もあったものである。
 けれども、芸能に定められたいましめを正しく守って、勝手気ままにしなければ、その道の名人になることは、どんな道でもかわることはない。